潜 裡 眼
No. 30 霊的視点
今回は、霊的視点というテーマで二人の人物を取り上げてみる。
一人は法然でもう一人はお岩さんである。
浄土宗の法然と四谷怪談のお岩さんという取り合わせは、一見何の接点もないように見えるが、最高ポジティブ意識と最悪ネガティブ意識という人間意識に焦点を当てて違う角度から見るとどうなるだろうか。
私は法然に関する本を一度も読んだこともなく、一度テレビの特集で見たという印象だけで、特に詳しく勉強したわけではない。
また四谷怪談もかなり前にテレビで見たことがあるという程度である。
要するに、たいしてこの二人のことを深く知らないで、自分の心の中でこういうことも考えられるといった単なる勝手な推測であるが、もちろん私としては、それほど間違ってはいないと思っている。
内容に間違いがあった場合は、このような観点から今回は大目に見て貰いたい。
日本仏教界の二大巨星は、空海と最澄である。
空海は、シャカに近い意識レベルと私は思っているが、最澄は空海を意識的に超えることはできなかった。
最澄から300年以上経ってから同じ比叡山で修行した法然、そしてその法然の継承者である親鸞などが、現在に至っている宗教基盤を新しく造り上げた。
法然は、大変気になる言葉を残しているが、その言葉が今回霊的視点として取り上げるきっかけの一つとなった。
その言葉は、ほとんどの人が知っている、「南無阿弥陀仏」と言う言葉である。
善人も悪人も問わず、ただ一心に「南無阿弥陀仏」と唱えれば、極楽浄土に行けるということだ。
「そんなバカな」と思う人がほとんどだと、私もそのように取るのだが。
今の浄土宗や一般の人は、この言葉をどう解釈しているか、また今でも通用しているかはわからないが、まだ信じている人がいるのだろうか。
もし、このようなことがまかり通るのであれば、神(仏)は全くの不平等である。
しかし、このことが不平等だと信じるならば、自分の行ないは自分に報いとして現われる、要するに人の行ない次第で、神が平等にその人の行ないに見合ったものを与えるということを信じていることになるのだろうか。
法然は、一体このことをどのように考えて、この言葉や教えを広めたのであろうか。
もし、ほとんどの人がおかしいと思うこの不平等を、法然が本心で信じ切っていたとしたら、大秀才法然の意識はそれほど高くないということか。
しかし、そのような見方は正しくはない。
法然は、誰にも負けないくらいすべての経典を読破しているくらいの努力家だ。
やはり、当時の人々を救うための一番いい方法を彼なりに探した結果、納得できるものがこの言葉と教えだったのだろう。
たとえ自分が完全に納得できなくても、人の理解を考えると、この言葉や教えに落ち着いたのだろうと私は考える。
当然、法然は知っていたはずだ、他力も自力も両方必要で、どちらか一つでは浄土に入れないことを。
しかし、その時代背景を考えれば御すがりでなければ、人の気持もつかめなかったのであろう。
法然が浄土宗を唱える時代は、平安末期であるが「平安」という文字から血の涙がにじんでくるような「平安」とは反対に、戦いに明け暮れ、大火、飢饉、餓死、疫病、など生きるも地獄といった時代である。
この頃の地獄絵などを見た人もいるだろう。
このようなときに、宗教は人々に何ができるのであろうか、また何をせよと言えるのだろうか。
ほとんどの人が恐怖で狂っている状態の中、唯一慰められるのは、極楽浄土への道を説くことだったのかもしれない。
食べる物にもまた心も飢え切った人々を少しでも救うにはどうしたらいいだろうか。
法然が悩んだ揚句にでた苦肉の策か。
少しでも、それで心が救われるようにまた楽になればという法然の心からの思いか。
もしこのような言葉に、その法然の思いが込められているとしたら、言葉上は神の法則に反していることであるが、これも見事な「愛」の表現ではないだろうか。
「言葉に捉われるな、心の奥から真剣に人のことを思える愛だ」という法然の声が感じられる気になる。
すべては単純なのかもしれない。
人間と神、そして真の愛と赦し、これだけで何かが分かるような気もする。
「ただ一心に『南無阿弥陀仏』と唱えれば救われる」というこの言葉は、法然が当時の人を救うために造ったものであるから現代には通用しない。
現代の人が、宗教から心が離れていくのも当然なのかもしれない。
宗教は、本当に我々の知りたい本質的なことを十分に説明してくれない。
二千年からそれ以上前のイエスやシャカの教えであっても、それが真理や人間の本質を言っているのであれば、現代にも通用するような言葉使いや意味に変えることによって、かなり我々の役に立つはずである。
現代の言葉の意味でそれらを理解しようとするから分からないのであるから、霊的な意味を含む言葉は、現代の人にも分かるように解説する必要がある。
そうすれば、相当な知恵が得られることは間違いないだろう。
では、当時の人たちはこの言葉をどう受け止めていたのだろうか。
すべては、受け止める意識であり、それを信じ認める意識である。
そして、それを信じることでどのようになるかを考えてみる。
これについては、お岩さんの話の後一緒に述べてみたい。
夏が近づくにつれて、怖い話しがテレビなどでも多くなってくるが、私がこれから述べるお岩さんは全く怖い話しではない。
映画など一般的に思われているお岩さんは、化け物とか幽霊扱いされているが、本当は気の毒な人である。
いろいろと脚色されて真実はどうであったかはわからないが、とりあえずこれまで言われてきている四谷怪談のお岩さんということで話しを進めてみたい。
お岩さんの夫である伊右衛門が、散々お岩さんに苦労かけていながら、自分勝手な欲に目がくらみ、お岩さんを毒殺しようとした。
毒を盛られたお岩さんは、髪が抜け、顔も醜くくずれゆがんでいく。
そんなひどく変っていく自分を見ることは、どのような精神状態になるか、そして自分の夫が自分を毒殺しようと知ったとしたら。
このようなときの本人の気持は、到底誰も理解することも分かってあげることもできないくらいの意識状態になっているはずである。
ストーリーとは別な方向で見ていくと、お岩さんはどうしてこのような男と一緒にならなくてはならなかったのか、と考えたくなってしまう。
お岩さんが、どうしてお化け、幽霊扱いされたのか。
それは、人間にとって人生の集大成としての自己意識である、死ぬ間際の思いが原因であろう。
恨み、憎しみ、呪いなど怨念としてこれらすべての思いを伊右衛門に向けて死んでいったからであろう。
確かに、伊右衛門の裏切りはひどすぎて、そのような思いになることはわからないこともないが、
しかし冷静に考えるとお岩さんの本質、自分の深い部分にある超ネガティブ意識が現われたのだろうと分析する。
お岩さんには、乳飲み子がいた。
このような状態で死を迎える人の究極的意識状態は、計り知れないとしてもやはり人それぞれに違うはずだ。
相手への復讐に燃える人、自分の不運を嘆く人、子供のことだけを心配する人、神(仏)に一心にすがる人、それでも生き延びようとする人、いろいろな意識状態がある。
しかし、最後にどのような意識状態になろうと、それは本人の根本にそのような意識、またはその意識になる要素があったからである。
人間死ぬ時は、何らかの思いになるはずだし、このような場合であっても、人それぞれ自分の真の性質を現す思いが出てくるのである。
お岩さんは、前世にもこのような憎しみの中にいたのではないか、だから最悪レベルのネガティブに同調してしまったのかもしれない。
本人が気がついていなくても、無意識の中にある自分の潜在性質が反応する。
このようなことをすれば、また来世も悲しい運命に遭遇するかもしれない。
類は友を呼ぶ、ネガティブ意識はネガティブを引き寄せ、ポジティブ意識とは水と油の関係になる。
すべては、自分が造り出している。
このような目に会うのも、自分の過去世意識の現われか、それともただの偶然か。
お岩さんだけに焦点を当てていると、伊右衛門のせいでそのような意識状態になってしまったのではないか、すべては伊右衛門のせいだと思う人もいるだろう。
確かに伊右衛門のせいであり、伊右衛門さえ正常であれば、このようなお岩さんは生まれなかったかもしれない。
しかし、最後に自分の心をそうさせた、そのような思いを選んだ、そしてそのような思いになったのはお岩さんの潜在的意思である。
その責任は、自分の来世でそれに見合った経験をするか、克服するしかないであろう。
自分の意識は、自分で守るしかないということである。
他人がどうであれ、そこは冷静に理性的に客観的に自分を観察し、制御しなければならない自分が必要なのである。
このような場合は仕方ないだろうではなく、このような状態に合わないためにである。
人間は、死を向かえるときの意識が、その人の次なる世界を決定する。
それは自分が生きてきた結果の真の自己意識と言うことである。
当時、法然の言葉を心から信じ、自分を本当に反省し、悔い改める人がいたとしたら、その人はかなりのカルマを自分の意志で解消したということになる。
ここで働くのは、言葉に支えられた「信じる力」である。
ここに、真の赦しの本質的意味が隠されているのかもしれない。
人は、死ぬ間際でも意識次第ということだ。
しかし、意識というものは、そのときに変えようとしてもすぐ変るものではない。
だから、毎日すこしずつでも本物によって、自分の意識を変えていくのである。
自分の次なる理想的生命活動のために。