輪廻転生

No. 27 輪廻転生

仏教の教えでは、生と死を永遠に繰り返すことを流転、あるいは輪廻といい、その流れから抜け出すことを解脱という。

輪廻転生とは、車の車輪のように人の魂は死んだ後も、永遠に形を変えて生き続けるということである。

車輪のようにまた形を変えてというのは、この世と死の世界を行ったり来たりそのたびに違う肉体で生きるということである。

生まれ変わりに関することは、今までにもいろいろな方面でたくさんのことが言われてきている。
今回私は違った角度から、アダムとイブは誰もが知っているので、このことから輪廻転生の話を進めてみる。

これから述べることは、単なる思いつきではなく深い意味で私自身確信していることでもある。
その全部をここで詳しく説明できるものではないが、少しでも参考になるようにまとめてみたい。

アダムとイブの話は、旧約聖書の「創世記」に載っている。
この内容は、比喩や象徴で書かれてあるので、その解釈も難しい。

あくまで自分の知っていることを基盤にした、霊的推測になる。
まず、「創世記」からポイントとなるところをまとめて見る。

「最初の人間アダムとイブが生きる場所として神から与えられた『エデンの園』には、園の中央に『命の木』と、取ってはならないといわれた『善悪を知る木』があった。

神はアダムに園のどの木からでも好きなように取って食べていいが『善悪を知る木』からは取って食べてはならない『それを取って食べると、きっと死ぬであろう』と言った。

ところが、イブがヘビにそそのかされてしまった。
ヘビは、『善悪を知る木の実を食べても死ぬことはない。それどころかそれを食べると目が開け神のようになる』とイブに言った。

イブはその木の実を見ると『それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましい』と思い、その実を食べた。そしてそれを側にいたアダムにも与えた。

すると、二人の目が開け、自分たちが裸であることに気づき、慌てていちじくの葉を腰に巻いた。
食べてはいけない木の実を食べたことを神に知られた二人は、その責任逃れをいい始めた。

アダムは、イブが木からとってくれたから食べたと言い、イブはヘビが自分をだましたからだと、それぞれ他の者のせいにした。

神は、神の言葉を無視した(罪)アダムとイブをエデンの園から追放した。
そして罰として、アダムには一生イバラを耕して食を得る苦しみ(食を得るための労働)を、イブには生み(出産)の苦しみを与えた」

以上のことは、「創世記」の第2、3章に載っていることである。
旧約聖書では、アダムとイブの楽園追放があり、新約聖書ではキリストの再臨、そして神の国や地上天国の確立がいずれ来るとされている。

今回は聖書をもとにした輪廻転生の話であるから、地上天国である神の国がいつの日か確立するという前提で話を進めていきたい。
ただし、キリスト教には、生まれ変わりの教えはない。

ここで心を拡大してイメージしてもらいたい。

いつとも知れぬアダムとイブのいた頃から、これもいつとも分からない地上天国が確立する間のとほうもない時間的空間を想像的な観点から眺めてみよう。

そしてその時間的空間を頭の中で固定しやすいように、今度は適当に縮小してみよう。
今、頭の中に見えるのは、地上天国であるエデンの園と来るべき神の国であり、そしてその間には楽園を追放された時間的空間のひずみがある。

楽園を追放されたアダムとイブは、現在の我々人間である。
その追放された楽園と来るべき楽園の間が、輪廻転生の場となる。

では、どのようなことで輪廻転生が始まったのかを推測してみよう。

アダムとイブの二人は、神によって神の楽園に置かれていた。
しかし、食べてはいけないと言われていた「善悪を知る木の実」を食べてしまった。

善悪は相対である。
木の実を食べてすぐにお互いの裸に気が付いたということが相対を知ったということである。

そのようなことから、二人はそれまで真の相対を知らなかったということになる。
神は一、相対は神ではない。

善悪を知るということは、裏を返せばネガティブを知るということでもある。
ヘビの誘惑はネガティブの象徴であり、神に木の実を食べたことを知られた二人は、早速その責任を相手になすりつけるというネガティブ意識を現している。

一応食べてはいけないと神に言われていたが、食べるかどうかは自由で、神の世界は絶対自由平等の世界であるため、自己意志による自己責任といった法則が働いている。

この法則は、今の我々人間にも同様に働いている。
これが神的世界につながる自由と平等の基本となる。

二人は、神の言葉よりヘビの言葉を信用したために、取り返しのつかないことになってしまった。
このようなことから考えると、エデンの園には、善悪を知る木があったり、誘惑するヘビがいたりすることから、完全な神の世界ではないということがわかる。

本来、神の世界は完全であるから、完全以外のものは存在できないのである。
エデンの園や地上天国にしても、人間が進化した姿である究極の平和意識の世界ということかもしれない。

意識の進化状態が、その意識の存在できる次元を創造し、さらに進化は延長していくということか。

楽園いたときは、食べるための労働はなかったが、そこを追放されてからは労働の苦痛を課せられた。

また生みの苦しみも女に与えられた。
楽園にいたときは、これらの苦痛はなかったということになる。

相対の世界において、生み(誕生)があればその対極には死がある。
こうして、人類に自分たちのやった行為に対する結果として誕生と死の輪が回り始めた。

この世はアダムとイブの二人から始まったというのは人類の象徴ととらえていいだろう。
「木の実を食べると死ぬ」というのは、相対に生きるということで楽園追放であり、分かりやすく言えば天国から地獄に落ちるということである。

楽園が神と同じく永遠の生命の場とすれば、この世は生きていても死がある以上、死の世界だということになる。

永遠の生命とすべてそうでないものとの違いと言う意味にも取れる。

楽園を追放された我々人間は、本質的な面に関しては同等であり平等である。
この世においては、すべて輪廻転生に翻弄されている見かけ上のことになる。

真の違いは、自分自身で自覚できる深い意識の中にある。
我々はいつまでも人生という流れのままに自己を失っている必要はないのである。

生まれ変わりにストップをかけたり、この人生で次の行き場所を決めることができるのである。
このことは何も特別なことではなく今までの過去世の中でも、我々は、無意識のうちに次に行く場所(来世)を決めていたということである。

もちろん、すべては神が決めることであるが、その条件を満たすことは我々の意志でもできることである。

ここまでは、ひずみとしての輪廻転生の場だけを見つめてきたが、「全」が神である以上楽園はいつでも存在していることになる。

我々は、同じ繰り返しの生まれ変わりから脱出して、元のところに帰らなければならない。
楽園を追放された理由を考えてみれば、食べた木の実の成分が残ったままでは戻れないということになる。

その成分を消すことが、相対意識やネガティブ意識の浄化であり、それが人生の主たる目的なのである。

これは、神の秩序であり、人間の通る意識の道であるから、それ以外の方法で楽園に至ることはない。

人間の本性を問うのに、「性善説」と「性悪説」がある。

これは、孟子と荀子が首唱したことであるが、楽園にいた時の意識であれば人の本性は善、追放された時のネガティブ意識が人の始まりであれば、人の本性は悪ということになる。

しかし元々人間は神と共にいたのであるから、とりあえずは善ということになる。
何故、とりあえずかといえば、これは相対の世界の見方であって、神の中ではこのどちらも無いからである。

我々が聖書や他の宗教のことに関しても、なかなかすんなり理解できないのは、その書かれてある内容をすべてこの世の意味で捉えるからである。

この世で理解できる意味と、潜在意識的な意味、それに完全霊的にある意味の三通りの意識で全体的に把握できれば、霊的な本に書いてある神秘的なことも大体理解できるようになるのである。

生まれ変わりのことは、潜在意識的からもっと先の意識に関することであるから、なかなかピンとこないかもしれないが、それでも自分自身のことなのである。

この内容を意識的な感じとして捉えることができれば、我々が生まれ変わらなければならないのはどうしてか、また生まれてくる目的は何か、本当の人生の目的は何か、などいろいろなことが見えてくるはずである。

それとも人間は、何の目的もない、ただ誕生と死の間で生きるだけの存在なのであろうか。
小さな観点でああでもないこうでもないと考えていては、いつまでたっても本当のことが分からない。

輪廻転生の真の意味が分かってくると、自分の前世が何であったかなどは、それほど大きな問題ではない。

前世やその前の過去世のことが役に立つのは、その時の自分の意識のあり方がわかることなのである。

人類としての我々がいつ神と共にあったかは分からないが、それにしても長い間輪廻転生を繰り返しているのであろう。

また来世も同じく生まれ、学校に行って、社会に出て働いて死んでいく。
そしてまた再来世も。

本来、真の意識の存在にはないことを、楽園から出されたことでわざわざいやな思いと苦しみに生きていかなければならない。

我々は神の場からやってきたのであるから、動物肉体意識とは別に生命意識(魂)がある以上、動物と同じ意識に下がることはない。

神から離れた理由がわかれば、その逆をたどっていけばいいことになる。
「楽園」という言葉自体も分かりやすくするための象徴であって、真に意味することはそれ以上のことであろう。

本来の我々の魂意識、生命意識、神と共にある意識という意味なのであろう。
圧倒的大多数の中の仲間意識である安心というひずみの中か、その外かの違いになる。

これを完全理解すれば、誰からもそして何に対しても自分の心が傷付けられるということはない。
我々は本当に長い間、大多数が正しいと信じていたことを、それが本物のように数多くの過去世の中で信じ込まされてきた。また今も。

そして、自分自身も知らないため、そのように教えてきた。
結果、まだこのようなネガティブの中で自己も知らずに、この世というものの中で翻弄されている状態が続く。

簡単にまとめてみたが、輪廻転生については今の話とは全く違う内容でもいくつか話すことはできるのである。

輪廻転生自体は証明できないが、それがなければおかしいということは、いくらでもある。

結局、自己の意識の中で深く理解していくことが、一番納得できることである。