霊の中(2)

No. 32  霊の中(2)

死後の世界、そこは、幽界、黄泉の世界などと呼ばれている。
ほとんどの人に共通した間違いは、死んでから入る世界を霊界と思っていることだ。

また一般的に、霊または霊界という言葉を聞くだけで、何かつかみどころのない恐怖やネガティブなイメージで気持が縮んでしまう人が多いことも事実である。

これはテレビなどでやる怪奇、心霊現象的なことや、昔からの地獄というイメージがまだ意識の中に深く入り込んでいるからだろう。

このようなことは、低級でネガティブな人間の心に基礎をおいた考えや想いからくるものである。

また、その真実を知らないために恐怖観念から脱出できないばかりか、そのような紛らわしいものを見たり聞いたりするたびに、強いネガティブな感情に支配され自分の心身に悪影響を及ぼしている。

霊という言葉だけで怖がる人は、昔からの霊的ネガティブ観念がいろいろな形で自分に入ってきたものを、恐怖の故に「それは在る」と自分自身で信じてきたからである。

霊の正しい意味とその正しい方向も知らず、ただ怖がっている人は、本当に気の毒である。
霊界という言葉にしても、昔から死んだあと行く世界というイメージがあって、未だにその印象は人の意識に根深く浸透している。

これも日本に仏教が広まる数百年の間、その頃の理解力のない人々に死と天国地獄などを善悪の観念を植え付けるための比較として、このように教えるしか方法がなかったいう結果かもしれない。

その影響が今の時代になっても、尾を引いているということか。

私にとって霊というものは、私の命であり、これが自分を通して働いてくれなければ生きていても全く意味がないとさえ思っている。

霊界にしても、それは自分の魂がいろいろな知恵を私のために霊界の秩序を通して送ってくれているところで、そこは完全そして真理そのものの世界と意識している。

大事なことは、この世の意識のままでいるか、次なる次元に向かう意識を開いていくかである。
このように言うと、何か特別なことをしなければならないと思う人もいるかもしれないが、今、意識的に一つ一つ成長していることが、同時にこの方向に向かっているというだけである。

それは自分の意志で、早くすることも近道を通ることもできる。
結局、すべて個人の自由に好きなように生きるだけであるが、後になるほどネガティブの蓄積量が自分に重くのしかかってくることになる。

天国や地獄も人間のつくった観念の世界でしかないのであって、死後の世界では、この世に生きていた間に自分が信じていた観念を、無意識に望んだ世界として自分がそこに存在化するだけである。

この世もあの世も、すべて自分の意識(カルマを含め)に責任を持たされるということになる。
すべての人間にこのことが平等に備わっているなら、神はやはり絶対平等である。

この世とあの世は、我々の意識そのものを存在化させた一時的幻と言われていることも、本当に納得のいく言葉である。

人間の意識にもその段階や働きがある以上、この世以外の世界も我々の意識に対応するように分けて考えると理解しやすい。
それは人間の意識的進化の過程によって、死後移って行くいくつかの世界を次元として考える。

宇宙(この世)、人間の全意識、輪廻転生する意識、死後の世界、霊界、次元、魂、神などを全体的にとらえた深い理解を一つの意識として、それから神の秩序や法則を適用しながら、この物質世界においても、できる限り矛盾しない答を導き出していく。

このような導き方をするときに、私が今までこの世に生きて受け入れてきたことが、精神的(心・意識)、霊的な面でいかに間違いが多かったかということである。

それらは私にとって、自分を高めることも知恵として働くこともない、全く魅力のないものばかりであった。

私は、そのほとんどを無視し、新しい絶対的な意識を入れることによって自分の潜在意識を変えてきた。

現代において、多くの人がストレス、心の問題、人間関係、自分自身について、このようなことに苦しめられているのは、ただ本質を知らないというだけであって、それは逆に気づきに向かわせる働きかけかもしれないのである。

もし、このことを正しく見つめることができるなら、それは自分の魂からの援助である。
人間は、どこかで自分の意識を切り替えなければ、いつまでも真の愛と平和のない歴史の中から脱出できない。

我々は、単なる過去の観念の伝道者や追従者にはなりたくないものだ。

死んで成仏するとか、神の世界に行くとか一部の教えでは言われているが、そのようなことは神の法則からありえない。

神の法則は、意識の秩序であるから我々の意識も、無意識的にそれに支配されている。
我々は、この世を肉体的に離れたからといって、すべて死ぬわけではない。

生命意識は、どの世界、どの次元に移っていくかは霊的意識レベルによって違いはあるが、そこでも我々は生きている。

人間が死を向かえ、そして次に向かうところは死後の世界である。
これはどの人間にとっても例外はない。

我々は一旦死後の世界といわれるところに入り、それから霊界に入るか、それともこの世に再び生まれ変わるかが決まる。

一般的見方になれば、「生」の世界が地球と考えるなら死後の世界は「死」の世界となるが、それはこちらから見た勝手な捉え方で、死後の世界から見れば地球に戻ることは「死」の世界に移ることを意味する。

また、完全なる生命の霊界から見れば、どちらの世界にしても間違いなく「死」の世界である。
このような次元で「生」「死」を見つめていくと、真の「死」というものは何であろうか。

肉体だけに「死」があり、すべては意識、そしてその実質は霊である。
ほとんどの人、ほぼ全員がこの地球のどこかに生まれ変るだろう。

完全なる霊界に入ることのできる人、すなわちその条件に満たされている人は、意識的浄化の点で非常に少ないだろう。

霊界は死んでからいくところでも、誰でも入れるところではなく、条件を満たしたものだけがそこに移るのであって、それは神側(霊的法則による)の受け入れが許されるということである。

その条件とは、単純なことで、自己のネガティブ性を外すことである。
自分のポジティブ意識や霊的意識の向上するその過程は、自分の意識レベルや霊的能力そして知恵などにおいて自分自身で認識できるものである。

その向上による大きな段階的理解は、終には、意識の深いレベルの「あるがまま」に触れ、そして「愛」の真の意味に触れていくことでわかる。

もし我々が、自分の信じる道において、自己意識レベルの発達をはっきり知ることが出来なければ、その方法は間違っていると言わざるを得ないだろう。

すべて自分で認識できなければ、どうして自分自身を知ることができるであろうか。

死後の世界は、この世での記憶や意識をある程度持っていられるところである。
しかし、ここに入ると死んだというより、どこかの土地にたまたま来ていると思っている人も多いかもしれない。

このような記憶が働くのは、死後の世界の入り口とか境界レベルだけであろう。
そこは、よく聞かされるお花畑であったり、先祖の人たちと出会ったりするところである。

そこからさらにこの世の記憶を制限されて入っていく世界が、本当の死後の世界というわけである。

そこは、この世で一番強く執着ないし意思していたこと、また願望していた無意識に定着した意識が顕現する世界である。

この世にしても、死後の世界にしても、自分の意識で創り上げた実質のない幻の一時的な存在の世界である。

幻という言葉を使うと非常に誤解されやすいが、「無」という意味ではない。
全体的に輪廻転生を見つめることができれば、自ずと答えは出てくる。

真の永遠的実質の世界は、霊界なのである。
私が霊界と思われるところに入った時の意識は、死後の世界にあるような意識はなかった。

それは、そのときその瞬間の反応があるのみで思考とか、ネガティブな意識は一切なかった。
すべて私の素朴な純粋な状態としての意識反応だった。

結果的には、私がこの世的な意識がよみがえった時、現実に戻されたということである。
それは、自分の将来のことであったり、死のことであったり、この世の意識に触れたときである。

私がこの世界で学んだことは、振動の違いであった。
霊的振動、それは霊界の一番外(入り口近く)の振動かもしれないが、私が知っている中で一番ネガティブ性が感じない振動であった。

霊界を死後の世界やこの世の反対の極として考えるなら、不完全に対してそれは完全な世界である。

この完全というのは、この世で知られる完全という意味ではなく、霊的完全というこの世の言葉で理解することのできない完全である。

その完全な世界に、人間意識にあるネガティブが入っていけるであろうか、またほんの少しのネガティブ意識であっても入ることができるであろうか。

私が聞いた自分の死の宣告も長い間の研究で、このような意識的秩序のことが分かって来るに従って、その意味はネガティブ性に関係することではないことが分かった。

私が死ぬということは、この世の意識としての死であって、その延長上の霊的意識に完全に向かえということだと解釈し、またそのとおりに進めてきた。

我々が何回も輪廻を繰り返し、同じようなことをこの地上で繰り返し、いつまでも霊界に入れないのは、ただネガティブを外せないからである。

そして、そのネガティブも我々の知っているものからこの世とは直接関係のない人の意識にも上らない潜在的ネガティブ性まで在るのである。

それを知ることによって、霊界は絶対完全の世界であることが意識的に理解できるようになってくる。

その絶対性は、不完全な我々の意識では、どんな最高の理想を考え出したとしても、いつもその低いレベルに過ぎない。

何故なら、この世の意識では触れられないからである。
真の霊について我々が考えた理想などは、真の霊のあり様とは比較にもならないだろう。

我々が霊を理解するきっかけにもなる、「あるがまま」とか「愛」というものも、それは思考を通して分かるものではなく、特殊な言い方をすれば、無意識的に映ってきているその瞬間を無意識的に感じているということになる。

それは、そのものを直接体験するしかないのであって、この世にはそれを表現する言葉はない。
だから、そのようなことを詳しく説明している本などは、世界中どこを探してもあるわけがないのである。

この「あるがまま」を体験することは、無時間の中で自分の意識が何らかの働きすることである。

私は、無意識の中で時間を離れるという意識状態を繰り返し試しているうちに、いろいろなことを発見した。

意識で動けないかぎり、意識を働かせることができない限り、真の理解は進まないのである。
本質は意識であって、意識がすべての答を知り、神(魂)に近づき得るのである。

この世や肉体は物である。
私は、心まで物として扱っている。

物は何の力を持たないことを理解すれば、意識の力を自分の見方にできるであろう。
我々は、奇跡やそれに近い創造的発現があることを知っている。

また、我々は自己のネガティブを浄化させることによって、創造性を得られることも事実である。

しかし、奇跡的なことやそれに近いことを出現させることは、自己浄化は絶対の条件ではない。
一瞬の時間に無意識的同調がなされれば、それを現実化させるかそれに近づけることは可能であると思うが、しかしそれは簡単なことではない。

それとは別に、自分の将来に向け、また確実に自己願望の実現に向けた方向性には、自己浄化(ネガティブ支配)は絶対に必要なことである。

我々の心の問題など精神的苦悩にも、このようなネガティブ性が大きく関わっている。
簡単な例えとして、ある人の悩みが、私の話によって解決したとする。

それは、私の知っている範囲のどの程度の理解によるのか、結局私が話す意識的真実に近づけず、また理解していない分、その人は今後も悩むだろう。

人間から苦悩や精神的葛藤が消えない、そして無くならないのは、意識の理解が有る段階に到達していない未消化の分が残っている限り続くのである。

心の問題に関する相談であっても、本当のことを言えば、人間の意識そのものは、本来誰も変えることが出来ないということである。

変わるのは、その人がそれに関する話を理解し完全に受け入れたからに過ぎない。
そして、頭ではなく本当に分かったという感じは、無意識レベルからやって来るのである。

我々が真剣に自分を見つめたとき、自分の意識を自分も知らない無意識の部分から誰かが変えてくれるということがありえるだろうか。

我々の使える知恵や力は、自分から離れたところにあるのではない。

意識と霊を一つとして、そして一つの自分として進めていかなければ、いつまでも他に何かを求めて行かなければならない人生になる。

どんな人も最高の知恵は、自分の内から現われて来るのである。