瞑想(2)

No. 19 瞑 想 (2)

瞑想の種類と段階を大きく分けて、述べてみる。
* 自分の気持(心)を落ち着かせ、何も考えず思わず、じっと静かな状態の中にいる。

* あるイメージ(宇宙的・霊的・調和的感じなど)に意識を合わせ、その感じの中で自己の心・意識をどんどん拡大させる。

* 愛・調和・真理などの言葉から自分が反応する感動的な感じ(振動や波動)を、自分と同化させるように意識化させる。

* ある言葉を選んで、そこに含まれる真の意味や特性などを徹底的に考える(熟考)。

* 自己のネガティブ性や消極性また気になることなどを徹底的に引き出し、いかにして克服できるかを考える(熟考)。

* 自己存在・人生・生きている意義・相対性との関わりなど、未知な部分に意識を伸ばしていく。

* 自己意識の浄化・調和化、心・意識の変換、無意識・霊性など高級振動との同調など、潜在意識中心の意識化を目指す。

* この世の想念(自分の中の考えや想い)を入れない、「無」の瞑想を自然に出来るようにする。

* すべての想念を制御できる意識状態(「無」)は、次の段階である無意識にある「有」の霊的感じと振動を意識化する瞑想に入る。

*「無」、次は「無」の「有」、そして瞑想とは言わない状態である真の「無」の無意識同調に入る(集中)。

ここに述べたことは、私自身がすべて行なってきたことであり、その一部は現在も行っている。

瞑想は、ものごとの本質を理解することであり、そしてその理解を意識化させるのである。
意識化とは、自分が今まで抱えてきた固定観念に変わって、新たに自分が確信のもてる真実による新自己形成のための潜在意識化ということである。

これは、一回きりで完成できることではなく、何回も塗り替えながら絶対的確信に向かって進化していく。

当然ながらこの経過において、迷いや間違いは捨てられより真の理解のための基盤が作られていく。

瞑想をするということは、その人にいろいろな良いものが与えられ、必ずいい方向へ導かれるということになる。
ただし、その方法や自分の目指すことに誤りがなければという条件が付く。

瞑想という行為とその結果は、知恵と力を得ることである。

真の力とは、一般的に超能力といわれるものだが、その程度はテレビなどでやるスプーン曲げやほんの少し物を動かすなどという低いものではなく、それは誰もが信じられないようなことである。
しかし、我々の瞑想の目的は、まず知恵におくべきであって、この人生を自己の意識の力によって安定または充実させることを第一とする。

心配・不安・恐怖・ストレス・迷い・無智などのネガティブから自分や家族を守る力をつけることが、まず我々の理想を一歩実現させることになる。

そのためには、真実、真理といった本質を知っていかなければならない。
この本当のことを知るということは、我々の間違いの原因である固定観念といった、自分自身を構成しているネガティブな部分にメスを入れることから始まる。

これらが実現していくと、解放や自由ということがよく理解でき、それはさらに意識的に拡大していくのである。
基礎を知った人は、後はどんどん伸びて益々進化するだけである。

これから瞑想を続けようとする人は、瞑想ということ自体はっきりつかめないだけでなく、その方法が分からないのも当然である。

瞑想していても、これで良いのかどうかと迷いがあるのは、その迷い自体が障害となる。
瞑想の方法や自分の求める方向性がしっかりしていると、無駄の無い効率の良い瞑想を続けられるのである。

そして、一旦自分の瞑想法が確立されれば、それは途中でやめられるものではなく、一生続けていきたくなるのが、真の瞑想を理解した人といえる。

瞑想は、思考を媒介にしながら意識と言う感じを拡大させる行為でもある。

何れ、知識と意識の違いから、意識という感じをはっきりとつかめるような話をしなければならないと考えているが、最終的に瞑想は意識状態になるということを憶えておかなければならない。

脳でもない、心でもない、意識が真の自分である。

自分の意識的進化に関してとても大事なことがある。

意識に関しては、段階があるということである。
基本的なことを知らずして、決していきなり高い確信は得られない。
そのようなことが出来る人は、過去世において既にある程度の理解に達している人である。

中学生の知識でいきなり大学の勉強は出来ない。
その間には、高校の知識が必要であるように、すべてに順序がある。

意識的な順序が分かれば、他の人にもその方法と方向性は伝えられ、そして良い段階を踏ませることが出来るのである。

超能力を目指すための瞑想が、いかに遠回りでほとんど得ることがなく、挫折するものが如何に多いかという理由はこのことからも分かるはずである。

誰もがほしがる絶対的な霊的な力は、瞑想の奥にあるということである。