潜 裡 眼
No. 18 瞑 想 (1)
「瞑想」と言うと、ほとんどの人は、宗教や禅またはそれに関連する修行などを頭に浮かべる。
一般的に「瞑想」ということに対する固定観念は、結跏趺坐をして両手指をお腹の前で合わせて、静かに目をつぶっている僧の姿である。
外から見る限りは、皆同じような形式に基づいてある一定の何かに想いを合わせているように見える。
私は、瞑想という行為やその内容について、誰かに教えてもらったという事は一度もないが、今の時点では瞑想についていろいろな事は言える。
私は、人がどのような瞑想法をしているか分からないが、単に瞑想といわれることの中にもいろいろな種類があり、また意識段階による同調の仕方があると言える。
人は、自分の求めることや目標にする事を明確にすることによって、その瞑想法も変わり叙叙に自分に合った瞑想をしていけるようになる。
一言で瞑想と言っても、それは単純に表現できる事ではない。
意識の向上という順序に従って進める事が、無駄のない適切な瞑想の方法と言えよう。
これから自分の人生に瞑想を取り入れたいと考えている人は、まず瞑想ということに関する事を多く知ることが、万全な体制とする基本を身に着けることになるのである。
何の説明もいらず、簡単でしかも瞑想力を上げる瞑想法は、毎日10分くらい何も考えずまた思わず、静かにじっと自分を保つことである。
これは、以外に簡単そうで難しいことである。
これが出来るようになってくれば、どんな瞑想も行える基礎が出来たことになる。
瞑想の方法は、一つか二つくらいだと思っている人もいるだろうが、いろいろな種類のほかに瞑想のための心の使い方やその入り方もある。
本などを見て行っている人や、少し瞑想を知っている人などから教わった人などは、おそらくこの大事なことを飛ばしていると思える。
このような人は、迷いと葛藤が同居した瞑想を行っているだろう。
瞑想に含まれるというか、密接に関わっているのがリラックスと集中である。
リラックスと集中ということは、誰もが知っている日常的にまた自然に行っている事である。
しかし、真のリラックスと集中となると、その本来の意味と力はこの世で通用する意味とは、全く違うのである。
これに関する説明は後に回すが、瞑想の始めの段階として大事な事は、心身のリラックスが第一である。
心身を癒すための瞑想であっても、まず想いのリラックスから始めなければならないのである。
いい香りの中で、心地よい音楽を聴きながら、ゆったりとした気分にさせるのは、瞑想におけるリラックスと言わず、それは気分転換というものである。
真のリラックスは、瞑想によって自分にもたらすべきもので、それは自己の意識に頼るもので他の何物も必要としない。
瞑想に関する真実は、同じ人間である以上それ自体意識の作用でありそれ以外特別なことはなく、瞑想が思うようにならないのは、ただ瞑想に対して本当のことを知らないということと、それが特別なものであるかの印象を今まで持っていたということにある。
人は、生きている間に何か問題が起きて、悩み苦しむことがある。
このような時は、じっくり自分自身を見つめそのいい解決法を探す。
このように、いい方法や解決策、またそれから気づく自己の間違いなどによる自己の意識修正なども、一定の瞑想という心構えではないが、これも一つの瞑想と言ってもいい。
本来人間と瞑想は、離すことの出来ない関係であり、自然な姿である。
瞑想を知らなくても、瞑想をしていることになる。
いろいろな発明、発見も瞑想状態の中に在る集中の結果である。
瞑想をしていない人間は、決して意識的向上はない。
瞑想は、自己意識の作用であるから、その反作用として何かを気づく、または悟ると言う事になる。
この行為は果てしなく続くものであるから、二、三回の瞑想で悟るということはあり得ない。
数回の瞑想で悟ったと言う人がいれば、その人は大嘘つきか未熟ものである。
簡単に瞑想の対象となる種類をいくつか述べてみたい。
段階としては、中程度であるが、その前の段階である基本的なことに関しても相当の心身に対する充実感や安心感は得られる。
心を軽くし、心身の疲れを取る。自己の性格や感情などの自己分析、人間としての意義。善と悪の理解。自己のネガティブ性の浄化。霊や神など未知なる事の理解。心と意識の理解。物質と霊の理解。生まれ変わりと人間の真の正体。潜在能力開発のための意識。相対性の完全理解と物質限界の理解。
その他見つめ瞑想する事はまだまだある。
そしてこれらの理解が進むと次は、無意識の世界に対する瞑想と集中に入る。
これがある程度理解していくと次は、全意識と自己の統一の瞑想に入る。
ある段階からは、「無」と言う言葉が使われが、よく「無」になるとか「無」に集中するとか言われる。
しかし、「無」と言う事自体在るものではなく、それは物質に対してそれから離れるということを意味しているだけに過ぎない。
もっと分りやすくいうと、霊の中、または霊の状態に集中すると言う事になる。
私は、瞑想中は「無」の中にいるが、しかしその中は完全に「有」を感じ「有」の中にいる。
それは、すべてこの世では感じる事の出来ない無意識の意識的感じである。
そして、この先にも想像を絶する世界が続いているのである。
このように見つめていくと理解できると思うが、意識には段階がありその向上は何段階も飛ばして進む事は出来ないということである。
それは、一人一人がやらなければならないことであり、人の言葉だけで理解できるものではない。
まして、誰かが代わりにやってくれるなどいう事は絶対ありえるわけもないのである。
とにかく、きっかけを掴むと人生は一変するということになる。
人によって、人生の目的もまた意識も違うから、瞑想を始める段階も人それぞれである。
しかし、全体的順序からみると、途中からは同じ道に合流するということになる。
合流するということは、意識が同じ方向に向かいそれぞれが同化していくということである。
全意識が完全な答えであるから、これに向かわない瞑想は間違っている瞑想である。
人類皆兄弟、全魂は一つの魂意識。ゆえに人と神は一体という事か。
私は、これらのことをひとつとして、瞑想の順序を語っていく。
瞑想を説明するには、基本的なことからまたはやさしいことから入って行けば理解できるということもあるが、全体を見渡す事によって方向性や瞑想の理解が早まると言う事もある。
今回は、全体の一部でありながら瞑想の全体と言う感じで説明した。
「潜裡眼」は瞑想の対象であり、瞑想そのものと私は考えている。
潜在意識の説明は、始め分り難くてもまずある程度の全体を示さなくてはならない。
人は、囲いが見えている方がまだ心を安定させることが出来るからである。
次回は、分りやすい瞑想の説明の予定である。