固定観念

No. 26 固定観念

次の文は、「エジソン」を検索していた時に見つけたものであるが、少し興味ある内容だったので主要なところを引用してみた。

「発明王エジソン(1847―1931)の名前は誰もが知っているであろう。
また、名言とされる『天才とは1パーセントのひらめきと99パーセントの努力の賜である』でも有名である。

この発言は、氏が82歳の誕生日の日に記者から『これまでの発明の中で最も素晴らしいひらめきの結果は何か』という質問に答えたものであった。

エジソンが実際に言った言葉は『それは赤ん坊の頭脳の中に天才を見いだしたことだ。生まれたての頭脳ほどリトルピープルにとって住みやすい場所はない。つまり、年が若いほど、リトルピープルの声に耳を傾けることができるのである。大人になってからでは至難の業となるが、それでも、何とか1パーセントのひらめきと99パーセントの努力があれば不可能ではない』であった。(氏の日記から)
        ー怪人ニュートンー (浜田和幸・ 日本経済社)

さらに注釈が必要だが、エジソンは『人間の魂に性格や知能を植え込む作業をしている地球以外の生命体がいる。それがリトルピープルである』と信じていた。

すなわち、自分を通じて誰かが次々と新しい発明をさせているとの思いが強くなっていた。
そんなことが分からない記者達は自分勝手の解釈で前述の名言を作り上げたのである。

(Little people in my brain・私の脳の中にはリトルピープルがいる、と言いたかったのである)
氏は無駄な努力を一番嫌っていたのだから、この「名言」が有名になって大変困惑したようだ。

かの、ニュートンも晩年は怪しい錬金術に凝ったりしたが、エジソンも同様に晩年はこういった超能力、心霊学的な世界にまぎれ込み奇妙な実験を行っていた時代に語られた言葉であることを理解しなければならない。(結局、このエジソンの言葉は意味不明)」

大発明王、人生82年目の時に言った言葉そのものに、エジソンという人間の絶対意識が読み取れるが、本当の意味がわからないというのも納得できる。

この文の注釈で、「エジソンは『人間の魂に性格や知能を植え込む作業をしている地球以外の生命体がいる。それがリトルピープルである』と信じていた。」とあるが、「自分を通じて発明をさせているのは、地球以外の生命体である」と、エジソンが言った記録が残っているのだろうか。

この一文を分析して本質に至るまでの話も興味深い内容になると思うが、長くなるので先に進みたい。


このエジソンの言葉を、私なりの解釈で述べてみたい。

頭脳の中の天才とは、我々が集中することによって現われる「ひらめき」(インスピレーション)のことで、質的に最高レベルの「ひらめき」である。

赤ん坊とは、柔軟性、純粋性、無意識レベルなどの意味である。
リトルピープルとは、自分の魂、潜在能力を引き出す回路となす潜在意識、魂からの知恵、ということになる。

真の魂の本質を知らないと、この時点で違う方向の解釈になってしまう。
エジソンは、「年が若いほどリトルピープルの声に耳を傾けることができるが、大人になってからでは至難の業となる」と言って、そこに大きな障害を暗に示唆している。

それでも、1パーセントの「ひらめき」が得られるように熱心な努力をすれば可能性があるともいっている。

この1パーセントの「ひらめき」と言う真の意味は、赤ん坊の頭脳の中に見出される天才、要するに絶対的レベルの「ひらめき」の世界に至る入り口を見いだす意識(気づき)ということである。

我々は、エジソンが生きていた時代の人達と比べれば、ずっとこの入り口の近くにいるのである。
では、大人になってからの至難の業と言われる大きな障害とは何であろうか。

それを一言でいえば、「固定観念」ということになる。

純粋な世界から見ればほとんど間違っていることを、正しいと信じて疑わない心である。
ここまで理解しなくても、固定観念に関しては、いろいろな人によって本当に多くのことが説明されている。

究極的な意識的修行は、この固定観念の完全理解とそれからの自由におかれる。
固定観念の潜在的な層の厚さは、心理学などで取り上げられるような程度のものではない。

結局、柔軟性のない固執した観念が潜在意識の中にこびりついている以上、それが邪魔となって入り口のドアを開けることができないということになる。

「ひらめき」を得る以前の問題である。
このことは、願望実現における潜在意識の理解にも共通して言えることである。

人間の潜在能力は、ひとりひとりに魂がある以上各人間に平等に現われるのであるが、それを邪魔しているのが固定観念の深さであったり重さであったりして、人それぞれに違いとなって現われるのである。

一心に何かを研究し追い求める心と普通に言われる固定観念とでは、固執している対象が違うのである。

後者は、本人の気づかない自己束縛ということにつながる。
これが人類の障害であるネガティブという言葉に置き換えられるのである。

聖書の中で、「汝、幼子のようにならなければ天の国に入ることはできない」という言葉がある。
天の国とは、高級意識レベル以上の存在を指していて、また、「幼子」という根本意識である純粋性も、これまでの説明と共通するところがある。

純粋性というと、一般的に受け止められる意味ではどことなくひ弱な感じをもたれるが、以前にも純粋性で述べたと思うが、精神の弱いまた疑い深い人間はこれを保つことが出来ないのである。

純粋性は、性格的なことではなく意識的なことである。


ここで、固定観念についていろいろ考えて見たい。

人は、生きていること自体さまざまな観念の塊、または想念の塊と言っても過言ではない。
我々は、自分に合ったそれらを自由に取り入れそして自分を形成していくのであるが、その一方では、望みもしない恐怖心によってつくられる自分もいるのである。

もちろんこれらの観念でそれが精神にからむものであれば、感情もセットになって一体化していることは分かると思う。

自分となっているものは、観念であり感情である。
そしてそれは、人格を形成していく。

人格が良くも悪くも変わることは、観念と感情のあり方が変わることである。
本来は、潜在意識と顕在意識がほぼ同じでなくてはならないが、どのような観念がどのように固定されて来たかが分からなければ、本当の自分が分からないということになる。

今の自分は、自分の興味と誰かの強制と何かの恐怖などの観念が、生まれて以来ただ入るがままに、その真意や真実そして真偽などが検証されないまま取り入れたものの結果でもある。

我々が固定観念を外すということは、特に強く固執している部分のことを言うのであって、その部分をきちんと整理するということなのである。

では、固定観念を外すということはどのようなことなのだろうか。

もちろん、何かに異常に固執していたり病的に囚われていたりすることは、問題である。
しかし、我々は今、この世に生きているのである。

その我々が、この世に生きるために必要な観念と反対に不必要だとする観念を単純に分けられるのであろうか。

このことは、潜在意識にも直接関連していることである。
もし、何かの潜在能力開発のためや自分を変えるために、ある固定観念が邪魔になるということでそれを捨てるとしよう。

しかし、その観念が人とのコミュニケーションや他のことを考える上で必要なものであるなら、それでも人はそのためにその観念を捨てられるのだろうか。

そのようなこと以上に、どれが自分にとって固定観念になっているかなど、はっきりと分かることではないということは、誰にでも言えることではないだろうか。

もし、このようなことを絶えず行なっていかなければならないとしたら、我々は逆に苦しむことになるのである。

苦しみは、何かが間違っているからであり、ネガティブなことである。


固定観念に関して言えば、我々は今のままでいいのである。
我々は心を拡大すればいいのである。

我々の心や意識は、いくらでも拡大させることができるから、新しい意識を入れるための今までとは違う枠か入れ物を用意すればいいのである。

それは、今までとは違う自分のための自分の力を引き出すための、そしてその力や知恵を得るための準備をすることである。

古い固定観念、暗示にかかった心、本質を失った意識、そういった迷妄とは縁を切るために着実に変わるための準備をしていくのである。

我々は、古い観念を捨てることに苦労する必要はないのであって、それはいずれ自動的に新しい意識によってその支配下に置かれるだけである。

そして、この二つの観念を使い分ければ、いろいろな人とも普通に会話ができ、一方では潜在能力の開発や自己の向上に純粋な意識を向けられるのである。

今の我々は、自分に意識化すべき意識の種類が少ないのであって、もっと自由になるために付けるべき良い意識はまだまだたくさんあるのである。

このようなことを進めることによって、自分は何であるかとか、自分の潜在意識が分からないとか、また自分を卑下することも無くなって行くのである。

将来的に、いずれ人間はこのような意識状態に入っていくのであるが、またこの方法は生まれ変わりに関しても重要な要素を含んでいるのである。


新しい意識とはどういうものなのだろうか。

私はエジソンが言った言葉の解釈で、純粋性と障害となる固定観念のネガティブと言うことを述べてきた。

新しい意識とは、純粋性それにネガティブの反対であるポジティブでつくられる意識のことである。

この意識が、自分にとって最高の力と知恵を生む「自分自身」と思えば、純粋性とポジティブはそう遠いものとは思えないはずである。

もちろんこれに含まれることは、人間の全意識に関係するほど多い。
それは、相対的に考えれば古い固定観念の量に対抗する分だけあるということになる。

我々の行なうことは、今の自分の意識を良く見つめ、ネガティブとポジティブを慎重に分離することから始まる。

ネガティブは古い固定観念の自分、ポジティブはそれから分離した新しい意識で生きる自分ということになる。

ネガティブと言っても単純に悪いものという意味ではなく、自分を心から自由にさせないものと理解した方がいい。

我々は、いつもポジティブ側に立ち、ネガティブ意識を監視するように、両方の自己でありながら客観的になることが大事である。

いかにネガティブが自分にとって何もいいことをしてくれないか、また自分の足を引っ張るだけかをつくづく感じてみるといい。

そして、それから分離したポジティブ意識を新しい心の枠にストックしていくのである。
この繰り返しで、自分のあらゆる点に当てはめていけばいいのである。

それ以外にも、外から絶対ポジティブと思われるものは理解納得して、どんどん自分の心の入れ物に積み上げていけばいいのである。

そしていつの日かその中に入り、その中から周りを見つめてみれば、きっと新しい何かが感じられるであろう。

これは新しい意識への基本となる行為である。
このような意識になって自分を高めていくか、それとも今の自分のままでいいとするか、結果としての自分は、想像による時間の経過に自分をおけばそのイメージが出てくるはずである。

また、このような意識に変わっていくことから得られることは、それだけではない。
このような意識は、同時に心身の健康につながるので、いろいろなことが可能になるという自信もでてくるようになる。

新しい意識に自己を向けることによって、何が変わるかまたどのようなことにいい影響を与えられるか、そして次に何を変えていけるかなど本当に多くのことが変化していくのである。