神(1)

No. 22 神 (1)

これから述べる神に関することは、今まで私が信じ集中同調してきた対象であり、その長い意識的修練中に瞑想やインスピレーションなどで知ったことも含んでいる。

私が同調する神に対する信念は、自分自身が実践を重ねて確信してきたことであるから、どんな人が反論しようが否定しようがそれによってぐらつくということはない。

すべてに顕現している神のことを、私は一回で説明することはできない。
また何かを示して、これが神だということもできない。

しかし、いろいろなことをできる限り神に近づけて、それについて考える事ができるように説明することはある程度可能である。

また、潜在意識について述べていることも、同時に神のこと、そしてその属性に気が付けるような説明になると私は考えている。

これからも潜在意識を理解していくことは、神を理解することだけでなく最終的に神と人間の関係を知悉するまでに至るだろう。

しかし、無意識や神そして霊というものは、すべて我々の目に見えないまた支えとなるものがない空白の状態である。

人は、見えるものやはっきりと感じられるものを欲しがる。
それが、何の根拠がなくても形の見えない無というものよりは、人はそれを信じられるのである。

人間の心は、見えないポジティブ(調和)より、見え、感じるという点でたとえネガティブなことであってもその方が落ち着くという面がある。

我々の心の中が、このようなもので大半を占められているということに、ほとんどの人は気づいていない。
そしてそれが、人の心にどのように影響しているかも分からないのである。

このような真実が少しずつ理解できてくると、我々の意識に実在する神に対する意識的感覚が芽生えて来るのである。


広大な宇宙は、星と空間からなっていると思われている。
宇宙を含めすべてのものは、偶然にできたものではなく創造神の現われである。
すべては神の現われであるから、どんなものにも神の意識が入っている。

宇宙の空間は、何もない無ではない。
宇宙の空間は何もないとされているが、何も無いところを光や電波それに彗星や宇宙船などがどう通っていくのか。

我々は、この「無」とか「何も無い」ということの意味をこの世の意味で解釈している限り、前に進む事ができないのである。

無なるものが神の中に存在する事はありえない。
人間は、真に「何も無い」というものを想像することができるだろうか。

人は、「無」であっても「有」という観念がなければ、その「無」を心で捕らえることは出来ないのである。

「無」というのは、瞑想においてもいろいろな段階的捕らえ方で変わってくるのである。

宇宙の空間は、いまだ知られない神の意識を含んだ質量である。
宇宙は神からなる質量の塊である。

だから、宇宙は無限と言われていても限界がある。
しかしその限界は、次元の壁であるから科学では解明できない。

今、私の周りを見ればいろいろなものが見える。
しかし、その間には空気である気体があるのである。

生まれて死ぬまで水の中でえら呼吸していれば、水はどのように感じるだろうか。
この世とは違う他次元の生命振動の中では、その感じ方はどのようなものであろうか。

宇宙は無限、それより広大な霊界は無限永遠。
しかし、霊界という存在がある以上、そこにも物である質量がある。

人間世界から見れば、何も感じることのできない「無」の世界である。
その霊界も一つの霊的質量の塊である。

大きさや無限永遠などというのは、人間レベルで測ることであって、霊的意識にはこの世の意識は適用されない。

一般に霊界と言われるところは、四次元界である。
霊的意識から神的な超越意識へと、意識はさらに進展していく。

全ての次元を内包した神は、一つの超精妙を超えた質量の塊である。
その神の外は、何も無いのではなく神とは別なものが存在している。

次元は意識、それはそれが存在する特有の振動である。
この物質界である三次元界は、我々が慣れなじんでいる振動である。

その界に生きる意識は、その界の振動に同調している。
四次元に入るには、我々の意識を四次元の振動に同調させれば良いことになる。

宇宙が先に創造されてから、霊界が創造されたのではない。
意識の高い順に世界は創造される。

この世界(人間世界)は、宇宙の中にありながらその意識レベルはさらに低い。
その低い意識の中に、どうして高級な世界を見せる事ができるであろうか。

極端に振動の違うものが同時に存在する事はありえないことが分かれば、イエスであっても神も見せる事はできなかったということが納得できるはずである。


死の世界は、霊界(四次元)の中にはない。

相対である死と誕生は、不完全の姿であるから、完全である霊界の中には存在できない。
死の世界は、三次元と四次元の中間点に位置していると私は意識している。

それはどこどこという場所ではなく、意識の集中する場である。
生まれ変わりをするのは、三次元界特有の意識であって魂そのものではない。

真の魂は霊界の中にあることが分かれば、魂自体が直接生まれ変わりすることはありえない。
すべては、法則と秩序からなる。

神自身が自らこの法則を崩せば、次元は成立する事はなく、すべては消滅だ。
だから、神は絶対、そして絶対平等でなければならない。

人が、この神の絶対平等を理解できると、さらに自己の意識は向上する。

すべてが神の意識を含むとすれば、神は生命である以上すべての次元はその程度はあれ生命体である。

そうなれば、死という観念は全く別な様相で捕らえなくてはならない。
人の中には、死神と言う言葉を気にする人もいる。
神においては、全て生命であり死というものはない。

しかし、物的世界における死という質量と生命の変化がある以上、神としても各魂であるすべての人間の誕生と死の中にバランス(カルマ)をもたらさなくてはならない。

だから、死の神も生の神も同じ神である。
人間のカルマに関連する平等性は、神の完全性の現われである。

誕生が無くなれば死は無くなる。この逆も同じである。
神の世界は、永遠の生命からなる光の世界である。
では、なぜ宇宙は暗いのか。

我々の住む物質界の限界を知るヒントは、相対性にある。

我々が、神を見ることは絶対できない。

我々が何よりも一番接近しなければならないのは、自分の魂である。
しかし、魂は個という見える形をしているのではない。

すべては、超越意識の現われとなる。
だから我々は一切の形から離れ意識で接近しなければならないのである。

時に、声で、何かの姿で見させてくれるのは、我々の潜在意識に作用させた現象である。

我々の本質は神と言われている。

また、その本質は魂という知ることない形態で我々とつながっている。
我々の肉体意識と同じく、別に魂は既に実在している。

この関係と神秘を我々はどう理解するか。
我々は、魂とつながっているといわれているが、どうしてその力を発揮させることが出来ないのか。

神は、全次元の中にありそして一つである。

神が複数の存在であればどうなるかくらいは、理解できなくてはならない。
次元は場所ではない、大きさでもない、一つの神の中で秩序立てられた意識で一体の中に浸透している。

全次元が神の体か。
あとは、その内にある法則、すなわち神の知恵に近づくのみだ。

しかし、自己の意識をこの世の中に集中させている限り、どうして神の息を感じることができるであろうか。

遠回りの努力より、順序に従った方が早く近づけるということである。


神や潜在意識について述べていることは、見ることも感じることも出来ない意識に関する事であるから、なるべく分かりやすく見える感じで説明している。

もし、この話のすべてをそのまま心に入れてしまえば、それは真理とかけ離れた固定観念になって真実を曲げてしまうことになる。

どんな話でも、自分が確信を持つまで心や意識に固定してはならないのである。
自分が確信するまでは、どんな人の言葉であっても自分が心底から認めるときが来るまで、参考という形で扱わなければ間違いを起こしやすいのである。

ここで私が言っているのは、内容ではなく映像としての印象である。
今回は、やっと神の影に触れられた程度か。

人間と神そしてそれに関わることをもっと理解出来るようにするには、膨大な量の内容になる。
物質から霊まで、その変化の過程とその次元の現わす意味などを考え、その広大さを自己の意識に入れることから考えると理解するにも時間が必要だ。

一つや二つ、またはいくつかのことだけで説明しても、神や実在するということを意識化することは難しいのである。

最終的に神をどのくらい知るまたは理解できるそして一体化できたかは、説明によることではなく自分自身そのもので分かることである。

神の力を得るためには、チャクラを開く,クンダリーニを上げる、その他には他次元のアストラル体とかメンタル体に集中するなど、いろいろなことが言われている。

チャクラが開いているとかクンダリーニが上がったなどと言う人も多くいる。
私自身は、チャクラが完全に開いているとは思っていない。

いろいろなサイトを見ると、チャクラをいとも簡単に扱い、また教えている人がいる。
私は、この世界用のチャクラがどのようなものであるかは分からない。

私が霊的力の基礎として目指していることは、本当のチャクラを開くことである。
私は、本当のチャクラを開くということがどういうレベルかは知っている。

それは、意識を霊的無意識に高めることと同時進行でも可能だ。
いつの時代も、神秘力の言葉遊びは実に多い。

魂の要求に応えて行きたい。
力を先にすることではなく意識を先行させて近づけるように。

神(魂)に同調していくということが、神からの報酬を得られるということであって、その報酬
は自分から取りに行かなければならないのである。