あるがまま

No. 35  あるがまま

「あるがまま」という言葉は、何かにとらわれないゆったりとした気持ちになった状態から悟りの境地に達した意識状態まで、いろいろな感じを表現することができる。

しかし、人間における意識的進化の最終段階である「あるがまま」の真意と、一般的にこの世で受けとめられている意味とでは、そこには大きな隔たりがある。

一般的な意味で使われている「あるがまま」というのは、肩肘を張らない、自然にのびのびと、素直に自分を表現して、ということだと思うが、その言葉を言われる方にとっては、逆に迷いが生じやすくなるのである。

それは、自分のこともまだはっきり分からない人に向かって、「自分らしく」生きなさいと言っているようなものである。

「あるがまま」という言葉は、何でもその場の雰囲気を言葉どおりの感じで包み込んでしまう力がある。

それほど「あるがまま」は、いろいろな場面で使える、違和感の少ない都合のいい言葉であるとも言える。


「あるがまま」の真の意味に近づくためにも、やはり段階を分けて説明することが必要だ。

それは、今述べた一般的に通用する意味、そして潜在意識に関わる解釈、それから本質である霊的真理としての同調である。

潜在意識に関わることでは、理解に基づく深い意識レベルとして、また自然調和として、宇宙の法則の理解を通しての行為を意識化するということになる。

自力として本質の理解と意識化の条件を満たす努力をするのと同時進行で、他力として「あるがまま」の状態から知恵を得るように任せるのである。

自力と他力は、バランスが必要でどちらかに偏りすぎてはなかなかうまく行かない。
さらに霊的理解になっていくと、「あるがまま」は、神、真理、霊など根源的な意識と一体という無意識レベルの世界になる。

それは、創造の世界であり完全意識の自由の世界であるとも言える。
「あるがまま」は、思考から離れることであり、同時に時間という観念から離れなければならない意識状態ということになる。

もちろん、このような世界にいきなり入っていくことはできないが、この体験は理解という行為を超えた「すべて」という一体感の中で、意識で気づくしかない意識状態である。

「あるがまま」は瞑想で言う「無」の世界ではない。
「無」というものは、どこにもないのであってすべて意識、次元である。

我々が、無意識におけるある意識状態を体験する場合、それははっきりと自覚できる感じが伴うのであるが、しかしそれについての感じは誰も説明することが出来ない。

それは、はっきりと自覚できる感じであり、多くの人が今まで体験していることでもあり、またこのような感じは、特殊な体験、たとえば神秘的、第六感における意識状態などでも体験することがある。

やはり我々の意識は、無意識を通して我々に作用する、もっと高いレベルの超越的意識に完全につながっているということである。

それは、我々の思考の中では絶対感知できるものではなく、我々の顕在意識の一線を超えた、また延長に入ったところから展開している意識世界である。

我々は、その意識を体験したなら、ただそれを受け入れるしかない、それが何であるかなど決して分析できるものでもなく、それはそういう意識または知恵として「すでに在る」ものとして認めるだけである。

この無意識が我々に現われる程度は、当然我々の意識の程度が関係するのであって、受け入れの態勢が整っている意識は、それなりの無意識世界が自己意識の中に広がってくるのである。

そして、この世の限界から完全に離れることができたときに、「あるがまま」の意識世界が自覚できるようになっていくのである。


我々には、基本が必要なのである。

我々の意識につながっている知恵への世界に気づき、理解していくためには、基本的真実や体験が必要なのである。

心というものを自分でもはっきりつかめないという人もいるが、ましてや、意識になるとその数も増えるだろう。

心や意識は、相互関連しているものであるから、きっちりと分け隔てる境界線があるわけではないが、このことは潜在意識においても同じことが言えるのである。

それらの意識を理解しながら分けていくことは、ただの考えや思い込みなどでできることではなく、それをいつも監視しながら、見極めながら、自分の意識に「自己を知る、説明できる自分」として植えつけていくのである。

その結果、潜在意識が自動的に反応してくれるようになるのである。
要するに、顕在意識と潜在意識との一体化で、それに関する自己表現においては、内的分離や葛藤はほとんどなくなっていくのである。

これが大変だとか面倒だと言う人は、いろいろなテクニックでしかも簡単に早く身に付けることを望むが、潜在意識は人が簡単に思うほど、その本人より愚かではない。


心と意識の違いを簡単に述べるために、瞑想とリラックスを取り上げてみる。

リラックスは、瞑想をしたことのない人のために瞑想に変わる一番近い例として、心と意識の違いを理解することが出来る。

我々は何故瞑想するのか。
修行、精神的訓練、リラックスするため、潜在的霊的意識開発、その他にもその目的は様々である。

しかし、瞑想するということを簡単に表現すれば、それは心から離れるということである。
心のままであって、瞑想の目的が達成されるということはない。

心から離れることが、先ず一段回目の瞑想の成功であり、その状態が意識である。
その心というのは、邪念や雑念と言われる我々の瞑想の進行を邪魔するものである。

もっと広げて言えば、邪念や雑念の大半は、普段生きている我々の心の状態である。
それが、瞑想に入っていく段階に、まだその印象が残っていたり頭に浮かび上がってきたりするということである。

これが、消えるに従って身体感覚や精神が落ち着いていくのである。
このようなことに気づいていくと、心にいることが悩みの状態であることも分かる。

あなたが悩んでいるときは、心の中にいるのであり、もしそれに疲れて少し静かになって調和的な音楽でも聴くならば、その心の状態にいることから少しは抜け出ることができるだろう。

それが、リラックスという状態である。
少しばかり、心から当面の問題や悩みを横に置いている状態である。

そして、リラックスが終わってまた心の中に舞いもどって、再び悶々と悩みの延長状態に入るのである。

我々はこのようなことを知って、またポジティブ、ネガティブの真の意味を知って、それから心の拡大ということを知って、さらに固定観念という束縛やその影響を真に知ることができれば、心そして意識という理解を通して、潜在意識というものを深く知ることができるようになるのである。

その意識は、無意識そしてさらに次なる「あるがまま」という段階に入り、潜在意識レベルで感じ取っていけるようになっていくのである。

心から離れてからは、そのような世界に、すべて意識的感じでただ反応していくだけである。
それから答えが分かり、それに対する反応がまた答えになっていくのである。

思考の入る余地のない世界である。
それは、人間の意識構成にもつながることであるから、心理的な勉強をするよりは比較にならないほど、人の心や意識というものを把握できるようになるのである。

一般的に意識は、はっきりと理解できないものとされているが、それは学問的にまた知識やテクニックで理解しようとするからである。

心理学もいずれ大きな壁に当たることは目に見えている。
その兆候として、まだ未熟であるが、催眠による前世療法やハイヤーセルフという心を超えた世界に踏み込んできているのである。


今まで述べてきた意識そのものの感じを、どうして文字で説明できるだろうか。

それが出来るようになるときは、その会話が成り立つときは、ほとんどの人がこの意識を知ったときである。

そうなれば、自動的に真の平和がもたらされるだろう。
心から離れた意識の世界には、正義も悪もその実質はないのである。

我々は、それをどの程度認めるか信じるかで、それを心の場でそのものに力を与えているのであり、そしてそれに従っているのである。

我々は無意識のうちに、創造や実現化を行っているとも言える。
意識と心の違いを意識(感じ)で分かったとき、それは自己の一大転機となる。

心の限界がこの世界の限界で、「あるがまま」から見るとそれは、物質的塊、心もこの世界も物的塊となる。

歴史的に見ると、過去より我々の心は広くなって来ているが、それは意識的成長というよりは単なる心の拡大に過ぎない。

単なる心の拡大とはどういうことか。
我々は、絶えず時間の流れと共に新しい面を見ている。
それは物質文明の発達であり、進化に関してだけである。

もし我々が、円周の内面をある一点から左右どちらかにずれながら移動し、見える風景が新しい意識的成長だと思ったなら、またそれが意識の進化だと信じていたらどうなるだろう。

結局、円の内面を一周して元の場に戻るだけである。
それが球だとしたら、永久的に同じことをやっていても気づかないだろう。

これが、我々のやっている心の拡大であり、決して、円(心)の外へ意識を伸ばすこととは違うのである。

このような状態では、我々は決して円の外へ、意識の方向へ、「あるがまま」の状態へ行けないのである。

文明は進化しても、今、心の問題が増えているのは、このようなことに気がつかないからである。
何かが違う、満たされていないと感じていても、それが何であるかわからないのである。

決して、現代の人の意識的なレベルが低いのではなく、知る術を知らないだけである。


昔、修行を通して求めていた悟りの感じや自己の成長が確実に信じられる強烈な内的意識の気づきなどは、今の時代になって心から意識への段階的誘導によっても体験できるようになってきた。

自分を救い、守り、そして成長させる確実な証拠が自分自身の意識で確信できるのである。
この世のあいまいさから離れた観点で見つめることができ、またさらに自己進化に向けてのスタート点に立てる場、要するにそのような意識状態が本当にすぐ近くにあるということである。

このような意識を体験した人がどんどん増えていけば、この世も大きな意識改革の時代へと新たな道を歩むようになるかもしれない。

何十年後の人間評価は、真の意識的質による評価に変わって行くかもしれない。
今までのような、古いやり方(方式や方法)、仲間意識的に足並みをそろえる、右習えのような意識では、真の平和は来ないのである。

我々はこの世のために生きているのではないのであるから、個人がもっと尊重される、分かり合える意識になっていかなければならない。

それも先ず、自分からである。

「あるがまま」は、いつでも自分の中にある、そして隠れた自分の意識である。