魂との対話(3)

No. 10 魂との対話 (3)

魂との対話は、深い内的気づきやインスピレーション、それ以外では内的世界での意識的体験など、すべて深い意識世界での神秘体験である。

一人一人にある自分の魂が至上の存在(実在)なのだから、それとうまく交信できるように訓練していくといい。

その基本的訓練が、霊的法則を理解し、それを自分自身の意識としていくことである。
霊的法則というと、何か超能力のようなことが出来るようになると考える人もいるだろう。

それは、超能力を引き出し使うための霊的なテクニックと思われがちだが、その方向に気をとられると本質という方向から大きく離れていくだろう。

超能力的とか超意識的なことはあるだろう。
しかし、私がこれから述べようとする霊的法則は、それを使えるようになるための基本的必要条件の説明であり、自己意識の準備ということである。

ただ、霊的法則といっても、これにも段階はあるが今は一般的な心や意識に関わることを言っている。
その中には、自分の悩みや心の問題解決、意識の向上なども当然含まれている。

超能力的とか超意識的なことは、霊的法則を知らなければその力も使えないのである。
しかし、そのような力は、単純にその霊的法則を学べばすぐにでも使えるようになるだろうか。

もし簡単にそのようなことが出来るのであれば、この世の中は大きく変わっていくだろう。
おそらく、悪い方向に。
何故悪い方向か。

簡単はネガティブ的で人を惹きつけるために努力を要求しないが、ポジティブ方向の本質、真理は努力が必要なため人はあまり興味を示さないからである。

本来人間に潜在している意識はポジティブそのものであるが、長い生まれ変わりの中でその高級ポジティブ意識を一度も体験してこなかったのだろう。

結局、ネガティブが自分そして人類の意識として、それがごく当然の自分の姿として生きてきたため、ネガティブなことには何の抵抗もなくすぐ入りやすいというだけである。

これに気づけば、本来の自分の意識は、ポジティブそのものだという霊的法則の中で進化して行けるのである。

こう考えると、霊的法則というのは本当に良く出来ているというか、我々の意識そのものの反映だということが良く分かる。

神の法則である以上よく出来ているというのもおかしいが、すべての人間はこの法則に従っている。
視点が、神側から見るか、この世側から見るかになるが、それはポジティブかネガティブかということでもある。

生活にはそれほど目立った影響はないかもしれないが、輪廻転生という大きな流れでは誰でもその法則を自分の今ある意識どおりに受けるしかないだろう。


私自身がこのような勉強で最初に求めたものは、ヒーリングの力だった。

しかし、途中からはその能力を上げたければ自己意識を高めることだということに気づき、またそのとおりやってきた。

決して、超能力的な力や簡単に得られるといったものを優先したことはない。
今考えても、これは正解だった。

おかげで、余計なことに時間をかけて迷ったり、回り道をしたりしなくてすんだ。
また、人にアドバイスする場合、どんなことにも霊的法則の基本から教えていこうとする。

目先の能力優先のみを強調すれば、いつかそのものに足元をすくわれる。
何故か、潜在意識的な部分で基本(霊的法則)を知らないため、その先の進む道がだんだん細くなっていくからだ。

この世においても、完全に基本を知っているのと、あいまいでは、当然仕事、能力にもだんだん差が付いてくるというのは、誰でもわかるだろう。

それがどうして、潜在意識、神秘的能力の開発では無視されるのだろうか。
物的なことには基本があって、神秘霊的なことには基本がないと思っているのだろうか。
先に能力がつけば、他のことはどんどん出来ると思っているのだろうか。

こんな霊的基本法則も知らないで何かを進めようとするのもいいが、経験のある人はその行き先が大きな壁だということに気付いているはずである。

私がいろいろな人が求めるこの神秘的能力開発で感じることは、近道だと思っていることがいかに遠回りをしているかということである。

私自身一人でやってきたため、本当に遠回りしたかもしれないが、その全体を把握し霊的法則を理解適用することを知った今は、一番近道がなんであるかが解った。

霊的法則を知るとは、いろいろな意識を理解することである。
高度な霊的法則は、次元の意識の理解になる。

意識の理解が進み、心の物質世界から高い次元の意識に慣れ親しんでいけば、自然にそれに見合った霊的力もやってくる。

また、その霊的力の理解もどんどん進んでいくだろう。
気づき、意識成長、そして潜在意識の理解を深めていくことは、霊的法則理解の道であり、それは当然どんな人もいずれは必ず通る意識の道、すなわち神、霊界方向の道である。

それを真剣に探求、勉強している人もいれば、前世の無意識の引継ぎとして自然にその環境に置かれている人もいる。

霊的法則に従う意識進化の道は特別なことではない。
日常を通してやっていることである。

ただ、それが霊的法則に適応していることだということを知らないため、ほとんどの人が自分の経験を有効に使えないだけである。

気づくかどうかの問題とも言える。
自分がこれまで生きてきた人生を、しっかりとこの霊的法則と比べて見るだけでも、信じられないほど自己意識が成長するのを感じるだろう。

どんな人も、霊的法則を自分の人生に当てはめて見るだけで、意識の成長が得られ、その使い方が理解できる。

心の悩み、苦しみ、問題から解放していく過程は、霊的法則を適用している以外何も無い。
それを、その場しのぎのテクニックで一時的に逃れ、これからの自分の糧にしない方法ではただもったいないと言うしかない。

今知ったことは一生使えることか、また次の土台になるものか、それだけが大事である。
何のための辛さか苦しみか、何のためにこのような自分が存在するのか。

人生におけるどんな経験も自分の意識成長には無駄が無いということを、どれだけ真剣に霊的法則から見られるだろうか。

自分の過去における失敗や躓きを単に無駄としてしまえば、おそらくその先も大きく飛躍することは難しいだろう。

向上の要素の無いところから、どうして良いものが出てくるだろうか。
何も考えることも無く、前世過去世の無意識の引継ぎでこの人生も過ぎていくのか。
「どうして自分だけが」、心の中ではいつもこの決まり文句で苦しむだろう。


神は絶対平等だという霊的法則を知れば、もっと建設的な見方考え方が出来、そして人生の焦点もおのずと決まってくるだろう。

何が正しくて、何が正しくないのか、だけにとらわれず、何が正しくて、それをどう推し進めるかであ
る。

正しかどうかでいつまでもぐずぐずする必要はないし、そんなことはどうでもいい、またたいしたことでもないだろう。そんなことは、こだわる人に任せておけばいい。

答えはあるのである。
その判断基準が霊的法則である。

我々は、体と魂がある以上、物質世界と霊的世界に生きなければならない。
それをどのように意識で制御しバランスよくこの人生を通っていくか、慎重さと柔軟さが求められる。

それには、当然冷静さ、客観性、理性、識別判断力などが必要となる。
その正しい反応と適用が、霊的法則そのものなのである。

このようにして、我々は人間の意識を理解しながらさらに深い意識の世界へと入っていき、そして自分にもともとある潜在能力としての霊的力をだんだん理解していけるようになるのである。

私自身のことで言うと、ここまで少しずつ意識段階を上げてくる中で、自分が求めるある意識レベルに達したとき、必ず次の目標がすぐ見えた。

今でも死ぬまで出来ないくらいの段階を追う意識は見えているが、おそらくどんな人もある意識に達すれば、すぐに次が見えてくるはずである。

霊的法則の適用は、先ず自分を見つめることから始まる。

自分の感情、いろいろな物事に対する反応、人から受ける影響、本質的自己など、自分でもどうにも出来ないと思うようなことをあらゆる角度から分析し、霊的法則またはポジティブ的な観点から分析することである。

善悪で見ることでも、道徳的に見ることでもない。また、大多数よりでもない。
こうなると、ほとんどの人がその基準がどこにあるかがわからなくなる。
これがこの世の迷いである。

迷いがある以上、本質的に理解納得させるしっかりとした根拠がそこにはないということになる。

生まれてから、その迷いの人生を正しいとして歩んで来れば、いずれは葛藤、混乱そして自己矛盾の中で苦しむことになっていく。

つらいことではあるが、ここまで考える人はそれなりの意識レベルにあるということも言える。
霊的法則の理解は、何も特殊なことではない。

自分が納得できる理解によって、心から満たされた意識に変えるということである。
霊的も物的も、一つの自分という意識の延長線上にある。

それに気づかなければ、人は安易なことを求める。それは、この世に属するある観念の方向で、限界ある一つに過ぎない。

一体意識は、霊的であれ物的であれ、一体の中で、それを越えるのを待っている。


私の意識的体験で、何回か最高意識レベルの方々のテストに落ちてしまったが、それはどういうものなのかを説明したい。

それは、肉体レベルの難行苦行ではなく、純粋な自己意識の制御に関することである。
もちろん、それはいきなり行なわれるのであって、事前予告はない。

その自己意識の制御は、いざという時の自己意識の表れであるから、事前に知らされてもすぐ出来るというものでもない。

そのテストは、究極な意識の段階を試されるものであって、すぐその場の決断が要求される。
それをすぐ決行する意識を見られるのである。

それは、肉体的難行苦行ではなく、純然たる意識の問題であるから、男も女も関係ない。
自己コントロールが出来ずして、きれいで静かな山で修行すれば何とかなると思うのは間違いである。

それより、この世のネガティブの中で訓練すれば、もっと強くポジティブ性を潜在意識化できるかもしれないのである。

意識レベルの高い方々は、我々の意識のことはすべてお見通しである。
我々の一番すぐ近くで接している自分の心が、この世で一番の自分を高める教材ということになる。

意識の大いなる向上、大変革は、悟りを得ることか。
私の行なって来たことは、この悟りの中に自分そのものを一体化させることだった。

それは、今までに無い自分として生きるための新意識の中に進むことである。
私はそれを「意識の死」を通過することによって大きく変えてきた。

今、「第3の意識の死」を通過しているときだと自分では意識している。
我々が生まれ変わりすることは、同時にその生の「意識の死」である。

人が新しい肉体に入れば、その成長における環境はすべて新しいものとなる。
赤子の時からだんだん自分を意識していく段階で、その環境の自分が本当の自分となり過去世の意識からますます遠ざかる。

当然、生まれてくるときは前世の記憶はほとんど意識できなくなってはいるが、それでも人によっては無意識的な過去の感じを持っている人もいるだろう。

どちらにして、その人は新しい自分の人生としてその意識で生きていくのであるが、我々はすべてとは言わないが、何も肉体的な死を通らなければ今の意識を変えられないということもないだろう。

霊的法則の理解を通し、それを潜在意識化する過程は、過去の未熟な自分、使いもののならない自分の意識から離れ、より大なる意識を把握できる自分として成長していく。

そして、その後の人生のいろいろな経験が、まったく新しい感覚と反応で自分の意識作りの証拠として積み重ねられていく。

それは、また新たな意識段階へのポジティブ集めということである。

「肉体的な死」と比較して、「意識的な死」の違いは、記憶が残るかどうかであろう。

記憶は気づきや世界を分析するために必要なものである。
自分の記憶のために苦しむというのは、まだ霊的法則の適用が完全でないためである。

出来るなら、人間が主要な過去世での記憶が分かればこの霊的法則がいかに正しいかが理解できるのだ
が、それは難しいことでもある。

もし、過去世自体を深く分析できれば、真の人間の正体と自分というものがはっきりつかめると思うが、それは個人々が真剣に見つめるべきことであって、それはそれだけ深い意味がある。


この「意識的な死」にも段階がある。
もちろん、それは自分自身で決めることであってどんな段階でもいいだろう。

私の切り替えは、第1段階は霊的法則を真剣に研究し適用して行こうと決断したことで、第2段階は、その中に入ってその霊的法則を自分の潜在意識に入れ、それと同化したことである。

こうなれば、自分は誰であるかなど考えることも、分からないということもない。
自分の顕在意識と潜在意識は同じ反応であるから、物質的なこと以外は考えることもなく答えはそこにあるという感じである。

第3の段階は、そのものになることで、それは霊的法則と自分の無意識が一つなることを目標とする。
この段階では、この世の自分という意識は邪魔になるが、それは法則上の問題である。

自分が知らない自分、それでいて自分。
よく言う「あるがまま」ということがこれなのかどうかは分からないが、その意識を説明しているものもないから自分で知るしかない。

「在る」が「あるがまま」の中に、無意識の自分が一体化しているという感じか。
そうなれば、違う次元を自由に動き移動することもできるかもしれない。

すべてが満たされているといった感じ、すべて任せていれば大丈夫だという底知れぬ安心感、といった感じがこの周りの意識的空気とでも言おうか。

そうなると、人間は知らないから苦しむ、それだけは絶対的わかる。
人は確かめもせず疑うから、前に進めない。

そのくせ、根拠のないものであっても、大多数であれば信じる。
誰も最後は自分の力で生き、死を迎えなければならないのに、仲間意識を優先する。

それらはすべて、慎重と柔軟な意識を持って、霊的法則を適用すれば解決できるものである。

私は自分の人生をかけて、神と人間の間にあるこの法則を研究してきた。

そして、たくさんの苦しみと、努力と、体験と、援助によって多くのことを知り、それが絶対に正しいことを深い意識に導かれるたびに確信できた。

これが、私の絶対意識として自分の肉体の意識より大事なものである。
いずれ、肉体がなくなったとき、私はこの意識で次元を動くからである。

自分では死はないと思っているが、こういうと、やはりおかしい人間となるかもしれないが、それでもいいではないかくらいか。

それは、肉体の死ではなく、意識の死のことである。
この世の心、人間の心というものは、私はどうしても物のような塊にしか感じられないのである。

その点、意識は自由で限界がない、また死もない。
神秘霊的方向に入るには、心から脱出しない限り無理である。


これまで魂との対話ということでいろいろな自分の体験を述べてきた。
それらは、その一部であってすべてではない。

分かりやすいところを選んで、話をしてきた。
ここでは、魂だからといって何でもべらべら話してくるのではないということが理解できたと思う。

もし、そのようにおしゃべりしてくるようなものが魂とするなら、私はすぐ何かの低級なネガティブ誘導と警戒するだろう。

意識というものが潜在意識を通さなければならない以上多くを語る必要はなく、それより大事なことは潜在意識に残るものだということも理解できたと思う。

意識は不思議な働きをするが、現代の心理学や潜在意識レベルの研究ではまったく理解できないことも多いのである。

学者が認めないから私が間違っていると言えば、その人は大きく遅れるだろう。
意識は神秘である。

今回、霊的法則や意識を知るもっとわかりやすい例として、コア・トランスフォーメーションのコアステートを説明するつもりであったが、それも長くなるので次回にしたい。

私はこのセッションを「ネガティブ解消療法」として行なっているが、本には書かれていない大事なことを加えながら説明してみたい。

人生で一度くらい、「コアステート」となる意識的感じを体験できたら、意識(潜在意識)というものがもっと自分の中で生かせるようになるだろう。