魂との対話(1)

No. 8 魂との対話 (1)

「潜裡眼」や「七光導」の中でたびたび出てくる魂という言葉は、精神世界系や催眠療法などで使われるハイヤーセルフとは根本的に意味が異なる。

魂は、自分の目先の都合で、そう簡単にいろいろな答えを出してくれるものではない。
そのようなものを否定するつもりはないが、それからの答えは、ハイヤーセルフからというよりは直感とか第六感程度に思ったほうがいい。

もし、人の都合に従うことが魂の役目なら、意識レベルを上げる努力なんて必要なくなってしまうだろう。

魂は人の都合で動くのではなく、その人の純粋意識に応えてくるのである。
魂からやってくる重要なインスピレーションも同じである。

それは、何かわけの分からないものから来るのではなく、いつも自分の魂から来るということは私の数々の体験から確信している。

もちろん、魂がどういうものか、その存在をはっきりと掴んでいるわけではないが、今はそのような意識が実在するというしかないのである。

もし、自分の内的意識にもたらされる言葉がはっきりしない対象からだとすると、それはどの程度信用していいか、いつも戸惑いを感じていなければならなくなる。

また、その内容の真意を読み取れなければ、ネガティブの罠に引き込まれてしまうかもしれない。
想念操作というものがある限り、何でも内なる意識に聞こえてくるものすべてが善いものだとは限らない。

私がこのようなことを言うのは、それなりにはっきり根拠を持って説明できることがあるからである。
少なくても、波動振動までは作り変えることはできないので、最後はこのレベルでも判断できる。

魂に関する今までのいろいろな体験や気づきなどは、今回だけで説明するのは無理があるので、次回(2)そして(3)を考えている。

内容的には、これまでも私なりに真実を語って来ているが、ただそれは無意識に関わることが多いので、出来る限り理解しやすくするようには努めている。

この世の意味、潜在意識の中の意味、霊的意味、3つの次元での言葉の意味が分かれば、意識の世界も大きく広がり、理解も進み、また疑いもほとんど無くなっていくのである。

「潜裡眼」や「七光導」をすべて読んでいる人は、少しずつでも潜在意識の中では「新意識」が構成され始めていると思っている。

哲学、宗教、精神世界の中ではなく、それを超えた自分の意識の中にこそすべての答えを得るヒントがある。

このことは、いろいろな本にも書いてあると思うが、その真の意味をどう捉えているかである。
「頭では解っている」それは、それで悪くはないだろうという程度である。

精神世界の勉強のつまずきをどう解消していくか、そして真に「解っている」という道を進むにはどうしたいいか。

それは、自分の魂とふれあい、それと一体となる中心に向かって進んでいくことであり、当然そのための本質の理解は避けて通れないのである。


今回は、この魂とのふれあい、声なき声との対話の話になる。
自己紹介にある「私が探究してきた意識の道」の中で、私が大きな壁にぶつかり、その後自分でも考えもしなかった展開で意識向上が出来たことについて述べてみたい。

この内容は、どんな人においても意識的な面で共通することであるから、必ず何らかの参考になると思っている。
人によっては、内なる大いなる目が開くかもしれない。

私が大きな壁にぶつかた後からの続きである。
それこそ、完全に燃え尽きてただ灰が残っているような意識状態。

自分自身ここから脱出するための気力も、何も考えることも、また何も浮かぶこともない、ただうつろの放心状態だった。

しばらくこうしていると、「神と人間」の関係に本当に意味があるのか、またすべてを含めた「神」というものに対して、最後の訴えにも近い思いが出て来た。

深く沈んでいる中で、自分の思いからしぼり出すように出てきたことは。
「自分は人生をかけて誰よりも勉強してきたつもりだ。人の体験できない不思議や神秘もたくさん経験させてもらった。それだけでない、すばらしいマスターにも触れさせてもらった。何をこれ以上すればいいのか。教えてくれれば必ずやるといってきたが何も言ってくれないではないか。ここまでやっていながら、自分がこれで終わりなら、他の人はどうなる。人類は絶対に救われないということか。だったら、人間は何のためにいるのか。単なる動物か。」

ここまでの思いで、すべて終わった。
その後少しの時間、自分の意識があったかどうかは覚えていない。

時間の経過も何も意識出来ない中、突然言葉が来た。
私がこれから大きく変わっていくきっかけとなる救いの一言、これも一つのインスピレーションである。

それは、無意識の中で解る声なき声である。
その言葉は、「よかったね」この一言。

もう終わりだと打ちひしがれている自分に言う言葉か。
私も沈んだ意識の中で、「きついなぁ、何でだよぉ」と思いながらその言葉に集中していた。

「よかったねか、・・・」
すると、次の言葉が来た。

「全部やったじゃないか」、私は自分の思いの中で答えていた。
「そうだよ、すべてやったよ、すべてやったんだよ」

思いの中で、なかばふてくされて言っていた。
そのまま、しばらく沈黙状態が続いた。

そうすると、何となく内側の意識が変わっていくのが感じられた。
その感じの中で、ひとり自分に言い聞かせていた。

「すべてやった。そして、すべてうまくいかなかった。すべて失敗、だから何もない、もう同じことをやっても同じ、だめだ。もう同じことはできない。同じことをやっても変わらない、また失敗するだけだ。間違いない、確実な証拠だ。でも、何もない・・・。」

その瞬間、光が差した。
「そうか!もう二度と今ままでやってきたことはやる必要がないということか。やってもだめだという証拠を掴んだんだ。ということは、これからは今までやったことのないことをやればいいということか。どうせここまで失敗したのだから、思い切ってとんでもないことをやってもいいはずだ。一度、終わりかけた人生だ。・・・・・。何をやるか、まだやっていないことは何だ・・・。」

じっとしたまま何かが浮かんでくるのを待っていた。
フッと浮かんできた。

「無意識!」
「そうか!まだ無意識の中に入っていない。もう無意識に集中するしかないんだ。もうこれ以外ほかの道はないということなんだ。」

覚悟は決まった。
「もう一度挑戦だ。今度こそ最後だ。これで何か解らなければ、もうどこにも自分の行く道はない。」
私は、気持ちを切り変えて、再び自分にとどめをさす方向に向かっていくことを決心した。
「無意識」今ままで挑戦したこともない世界だ。

ただ、不思議な体験の中にはそのような世界の印象があったので、その感じを分析しその世界を推測して、また一つ一ついろいろな方法で試して行こうと決めた。

一人でやるには、これしか方法がない。
この世の時間を離れ、人の中にある記憶や観念から離れなければ無意識の入り口にも立てない。

とても厳しい、そして自分を離なして自己意識を保つということはどうやってやればいいのか。
私は、何ヶ月もかけて一歩一歩、無意識の中に自分の到達する線を過程しながら進めていった。

考えられることはいろいろやった。
私はいつも自分の魂に語りかけて来た。

「何でもいいからヒントがほしい。教えてほしい」と。
そして、半年以上過ぎ、それがいつ頃かは忘れたがある意識状態に入った。

そこの空間は、どのような空間かは言葉にできない。
その空間の中に、もうひとつの狭い空間があり、そこに私はいた。

私のいる狭い空間は、自分の振動にあった意識空間であり、その周りはそれ以上の意識振動の空間、要するに次元の違う意識空間を無意識状態で同時に感じていた。

私がいる狭い空間のすぐ前の次元の高い空間に誰かがいた。
それは、感じであって形が見えるということではない。

私は自分の空間の中で、どうしたらもう一歩前に進めるのか、と思っていた。
そうすると、見えない存在から声が来た。

「つかむな!」
いつも、一言である。

私はその意味がすぐ解った。
それは、私が今まで体験したすばらしい感じのことである。

神の光、振動、神の世界、奇跡的体験、言葉、聖者の意識的振動、霊界、いろいろなことがたくさんあった。

どれもすばらしいことで、自分がここまでやってこられたのもこのような支えがあったからである。
「つかむな!」というのは、それを自分から離せということだと理解した。

それらを離すことは、自分にとってとてもつらいことであり、無力になることである。
前にもこれに似た呼びかけに躊躇して失敗したことがあるが、今回も意識が揺さぶられるくらい躊躇した。

また、声が来た。
「どうやって受け取る」

「そうか!」
この言葉で、すべてが吹き飛んだ。そして自分がいる狭い空間の壁が一気に薄くなっていくのを感じた。

「そうか、いつもこのようなことに頼ってしがみついていたから、大事な事も見えなく、また受け取る機会も逃してきたんだ。自分の狭い、無智な意識が、これが一番大事ですばらしいと思っていたんだ。
だから、いつまでもその壁を破れず、成長もできず、その場で足踏みをしていたんだ。拡大できない狭い意識のままでは絶対前に進めないんだ。永遠とは、絶対とは、真理とは、神とは、こういうことか」
ありがたい、感謝、それ以外何もない。

私はこの空間で、この理解の元にこのことを意識化していた。
そして、自分に戻り、もう一度この意味を整理してみた。

私は、神秘的なことに関していろいろな体験を自分の支えとしてきた。
すばらしい意識的感じをたくさん持っていたと同時に、それにしがみついていた。

しかし、いいこともある。この感じを大事にして、自分の意識やヒーリング能力を高めてきたからである。

それにしても、私が大きな壁にぶつかった原因がこのせいだとは夢にも思わなかった。
要するに、いつまでも自分の両手でそれを握っていては、魂がいつでもいいものを用意して渡そうとしているのに、それをどうやって受け取るのかということである。

もちろんこの手は、潜在意識という手である。
だから、「つかむな!」ということであり、いつでも受け取れるように両手を開けておけという意味である。

大きなことも見ず、小さなことに気をとられそれに執着していると前に進むことはできないということを教えられた。

よく、「神を見た、神の光を見た」とか「神のお告げを受けた」という人がいるが、このことでそれが如何に小さい執着に縛られていることに過ぎないことが分かった。

そのような人の言うこととその人の波動を感じれば、そのレベルは今では読めるだろう。
また、魂とか、神とのおしゃべりなど、いろいろなことを対話している内容もあるが、実におかしい感じがする。

魂の親が神である。
その神が、イエスや釈迦レベルでもない人に、いろいろおしゃべりをするだろうか。

魂レベルであっても、いつも気づきの「一言」である。
もし、次元の完全に違う魂や神と対話できるとすれば、やはりそれはイエスや釈迦また聖者レベルであろう。

もし、その実在とおしゃべりができるなら、当然その人の意識レベル、能力は相当なものであって当然である。

果たして、そのようなことをいう人はどうだろうか。
いろいろな視点から、理性的に霊的法則を適用して考えてみれば、見極められることは出来るのである。

この時点で、私は大きな気づきを得た。
それから5年経ち、今現在その考えはもっと確信に変わる証拠を持てるようになった。

ちょっと話が逸れたが、では、これまで自分の支えとして持っていたものはどうしたかである。
何もそのすばらしい体験に執着することはしなくなったが、だからといってそのすばらしい事を捨てることもしなかった。

それは、自分のすばらしい体験であるから、自分の意識の壁に飾ってあるだけである。
そして、いつでもそれ以上のすばらしいことが得られるように、それからは自分の意識を、いつも両手を開けていつでもつかめるようにしているのである。

このような意識状態は、後で出てくる「気づく力」を意識化していくのである。
人の心というのは、いつも何かに執着している。

決して、心を無にすることもないので、いざという時にいくらいい事を望んでもなかなか思うとおりのものがやってこないのである。


両手を開けておいて、その後の無意識レベルで行なっていた集中で起きたことである。
それからというものは、自分の知りたいことや気づきなど、不思議なくらい思ったように毎週途切れることなくやってきた。

この調子で2、3年の間で、私はいろいろなことを理解することが出来た。
その前の20年間の勉強は、熱心に精神世界の勉強をしている人と同じくらいか、不思議な体験が誰よりも多い分その人たちより理解できている程度であった。

それが、大いなる気づきから2、3年で、自分のこれまでの勉強の成果が随分低く見えるくらい、本当にいろいろな本質を理解できるようになったのである。

あれほど何も来ない、何もないと悩んでいた時期がうそのように、本当にこれでもかというくらい次々といろいろな気づきが来た。

本当に、またまた無意識という中の不思議を感じることが出来た。
本当のことはまだまだある。上には上があるというのは、この世だけのことではない。

意識の理解にも言えることである。
こう考えていけば、悩みや心の問題に対しても必ず答えがあるということになる。

しかし、仮にその答えを私が知っていても、それを理解出来ない人にはそれは答えにはならない。
ここが、人の意識に関わる問題解決の難しいところである。

私は、答えに迷うのではなく、どう理解してもらうかをいつも考えているだけである。


ここで、無意識レベルで気づいたことがどのように自分に残ったか、これも少し不思議なので述べてみたい。

無意識の世界に入る前の20年近く勉強してきたことは、自分の意識的訓練や集中など、それをどのようにやってきたかはほとんど覚えている。

しかし、この無意識の中で自分が集中してきたことは、ほとんど覚えていないのである。
相当な数の気づきやインスピレーションはあったが、ほんの一部くらいしか記憶にない。

また、あるときはこの世の誰も考えもしないだろう初めて知る感動的内容の智恵などもあったが、その驚きの感動の記憶はあるが内容は覚えていないのである。

全く不思議な感じである。
ただ、考えるときに必要なことは自動的に出てくるだけである。

ということは、それらの知ったことはすべて、自分の潜在意識の中に入っているということになる。
やはり、無意識である。無意識内のことは脳の記憶にはそっくり残らないようである。

霊的智恵は潜在意識に、この世の知識は心と脳に、これも意識的に理解できた。
このような事実から、意識の成長やレベルの向上には意識の通る道、すなわち意識には順序があるということを「潜裡眼」の中でも前から述べて来た。

それに従って進めていくことが、一番の近道なのである。
これまでの内容をよく考え、瞑想してみれば、意識、真理の深遠さ、永遠性、その他にもどうすれば気づきやインスピレーションが得られるかなど、いろいろなことに気づけると思う。


次に「気づく力」について述べてみたい。
私がいつも自分に集中させていることは、意識化した「気づく力」である。

ちょっとした変化、波動の違い、無意識で感じる内的な微妙な変化、外的な気や波動などもすべて無意識に反応させてから自分の意識で分析判断するようにしている。

このような意識も先ほど述べた無意識の気づきから高まっていったのである。
壁に当ってから5年近くたった今、私もそろそろ新しい段階へさらに意識を研ぎ澄ましたいと、今年に入って強く考えていた。

無意識をさらに深く探究し、その中を意識的に自由に動くにはどうしたらいいか。
それには、「第3の死」を迎えなければならないと考えていた。

この「第3の死」のことはこれもいずれ説明するが、簡単に言えば自分の意識を大幅に切り変えるための方法である。

自分における第2の意識的な死で、ほとんどのことを自分から離すことが出来たので、もう一度、今の意識段階からネガティブを離さなければならないと考えていた。

このネガティブは、この世で悩んでいるようなネガティブではなく、霊的本質に関わるネガティブという意味である。

しかし、ほとんどの人はそれがネガティブとは認めにくいものである。
「無意識をさらに深く探究し、その中を意識的に自由に動くにはどうしたらいいか」ということについて、自分における大変化がタイミングよくこの文を書く3週間前くらいから始まった。

あることに気づいた。
それは、私にとってこれから新しい分野に入っていくために必要なことだった。

それは大きな気づきだった。それをもっと深く知りたい。
そのような意識で毎日集中していた。

先週の日月、2日間の休みで山に写真を撮りに泊りがけで出かけた。
そこで、決定的な悟りを再び得た。

それは、自分の人生で3本指に入るくらいの気づき(大悟)だった。
では、どんなことで気づいたか、気づきの意識化ということがこれでわかってもらえると思う。

非常に恥ずかしい話であるが、事実であるからその気づいたきっかけについて話したい。
そのきっかけは、スピード違反で捕まったことだ。

全く、関係ないことのように思えるが、これも不思議なめぐり合わせである。
その日は、どういうわけか、朝から大幅に目的地を変更して初めて行くところに車を走らせた。

非常に長い下り勾配の道の途中から右折し、目的の場所に向かい、そこにしばらく居てから戻る途中だった。

元来た長い勾配の道に出ると、2車線道路で左に大型トラックがいたので、右車線を上り坂だったので一気に加速していった。

アクセルを緩めるとスピードが落ちるので、そのまま勢いをつけていった。
その間、5,6百メートル。行く先に赤旗を振っている警官が目に入った。

「事故か?」。車を左に寄せられ、私の車を指し、わき道に誘導された。
まだ、気づかない、何があったのか。

結局、スピードオーバー。違反キップ。罰金。まさか、こんなところで、しかも結構勾配のある上り坂で。

自分の中で全く違う感情が動いているのが感じられた。
サインをしてすべて終わってから、その後ずっと私は自分の中で自分に問うていた。

「おかしい、絶対こんなことにはならないはずだ。今までもこのようなときは、いつも何かを感じさせてくれていたのに。何かがある。自分の魂が何かを気づかせようとこのようなことをしたのだ。何だ」

3時間、4時間、ずっとそのことを考えていた。
だんだん、解りだしてきた。

「そうか、こうしなければ、私の気づくチャンスがどんどん伸びていくからか。2週間前に気づいた悟りをさらに決定的に開くためには、この方法が一番いいことだったんだ。」

ようやくその意味が解った。その悟りが自分のこれからの意識にいかに重要かが心底から解った。
すばらしい、何という援助だ。私は大納得した。

こんなに早く気づけるのなら、反則金がたとえ5倍であっても納得できるくらい、本当に待ちに待った気づきだった。

違反は違反として、反省しなければならないが、違反のことはどうでもよくなった。
ありがたいものだ。いつも必要なときに魂は援助してくれる。


この悟りの内容は、私の本質的特性に関するものだから話したくないが、要は、どんな状態でも何に対しても冷静に自分を見失わず、また何ものにも捉われない自分でありなさいということである。

もちろん、この中にはたくさんの説明すべき意味が隠れているが、これは、心の面ではなく潜在意識的、無意識的完全自己制御に関してのことである。

「気づく力」の意識化が実を結んだ。またその証拠を一つ得た。
これから、全く新しい意識の世界の挑戦が始まる。

想像(イメージ)が全く意味の為さない、無防備の自分で入っていく世界が待っている。
しかし、無防備でも心配は何もない。

ポジティブを超えた世界は、一切のネガティブは無いからである。
私はまた一つ、真の安心とはどういうことかを、今回の気づきで無意識的振動として知ったのである。

自己意識の向上のカギは、自分が納得できる本物の証拠をいかに集めるかから始まる。
そして、実践あるのみである。

その実践を続ける中に、智恵が見えてくる。その智恵が自己信頼の根拠となる。
これは意識的なことであるが、この世的に言えば知識的な観念でなる「プライド」でも説明できる。

自分の「プライド」のために大事なものや命までも捨てる人がいる。
その「プライド」を自分自身と同一のものとして見ている。

この程度の「プライド」は、自分の価値を代表させるものでも、真の自分自身でもないのである。
真に大事にすべき「自分自身」に早く気づくことが、何よりも満たされた心になる。