「無」の世界

No. 12 無の世界

「無」とは何か、「無の世界」とはどのような世界か。
「無」という言葉に思いを集中してみると、どのようなことが浮かんでくるだろうか。

ほとんどの人は、言葉で表現するのが難しいと思うか、分からないと言うだろう。
宗教や精神世界を知っている人は、瞑想や座禅でいう「無の境地」というかもしれない。

「無の境地」や「無意識」の世界に入れば悟りが得られるとか、そのような感じを体験できると思って一生懸命瞑想している人もいるだろう。

もしそれが正しければ、当然瞑想の目的は「無」への集中となる。
では、「無」に集中する行為とはどういうことなのだろうか。

最初は、どんな人であっても「無」自体が何であるかは知らない。
その知らない「無」に集中する行為は、何を「無」として集中しているのかとなる。

この理解は、我々が突破しなければならない意識の壁の一つと言ってもいいだろう。
瞑想に入りこのような世界に向き合うために、「無」になれ、「無」に集中せよ、と言われるが、「無」自体が何であるか知らなければ我々はどうしたらいいのだろうか。

また、「無」を説明できない者が、このように指導するのは、方向音痴の人が誰かを道案内するようなものとあまり変わりないのではないか。

とりあえず何か宇宙的なものに集中するか、または自分が思う「無」をイメージするか、それとも分からなくて集中力を欠いて瞑想にならないか。

これ以外にも、この瞑想を続けている間、自分が集中している「無」は果たして正しい方向や世界なのだろうか、という疑問も湧いてくるだろう。

「無」の状態に入り、その世界を体験し、すばらしい悟りを得たと言っている人は、その意識状態を瞑想せずに現実世界に意識的に表現できるのだろうか。

それは、瞑想時だけのことなのか。
また、この体験で何を知り自分のどの部分を大きく変えることが出来たのだろうか。

このような体験で気持ちがよくなり幸せ感に満たされた状態は、一時的にその気になっただけのことなのか。

たとえ、どのようなすばらしい状態を体験したとしても、その人に本質に関する知識がない以上、それをしっかり受け止めて同じ意識状態を継続して自分にもたらすことは難しくなる。

我々がどんな意識状態に入ったとしても、それが何であるかは、自分が持っている全知識と自己反応で理解するしかないのである。

瞑想における意識段階はいろいろあり、全体的な意識レベルから見ると、一概に悟りを得たという体験は限定的なものに他ならない。

私はどんな小さなことでも、何かに気づき理解すれば、それも「悟り」と思っている。
このようなことをどんどん積み重ねて行くと、ある段階からは悟りなんていうことは、考えることもその言葉を思うこともなくなるのである。

「悟り」そんな言葉はどうでもいいと思えるくらいの意識段階はあるからである。


瞑想で感じる特殊な意識であってもそれは自分の意識である。
無意識からさらに深遠な意識世界で何かを感じたとしても、それも自分の延長上の意識である以上、すべては潜在意識に印象付けられているはずである。

このことからも、人が目指す瞑想の「無の世界」というのは、観念や時間を越えた意識が何であるかの知識を知っているだけでも、非常にその世界に接近しやすくなるのである。

瞑想の訓練というか、瞑想を長年やっている人にはまた別なことも言える。
何に集中して瞑想をしているのか。

「無」、それとも宇宙全体か、いやそれ以上の無限永遠の神か。
しかし、真に知らないものにどう集中するのか。

ただ勝手にイメージしているだけか、それともただ漠然と瞑想しているだけか。
どちらにしても、それは無意識に自分の限定観念に集中しているだけである。

そのような方法は、そのものに対するイメージか、たとえイメージではなくてもうっすらとした幻影的な感じを見つめて集中しているに過ぎないのである。

どんなものでも、そのものに対するイメージ的なものが自分にあるかぎり、それはいつか潜在意識の中で映像化する可能性がある。

たとえば、長い間神に集中する瞑想を続けていれば、いつかは潜在意識が勝手に作った、自分が信じる神の形を無意識的に映像として見るようになるだろう。

そして、自分は神を見た、悟ったと思うかもしれない。
しかし、それが本物かどうかはどうやって検証するのだろうか。

別にそれで納得して、幸せを感じても悪くはないが、それ以上は望めないだろう。
本物、本質の追求、探求は、その気になることではない。

どんな人も自由であるから、自分の求める方向で進めて行けばいいのだが、しかしこのような小さな疑問も出して自問自答していけば、また新たな展開に結びつくこともあるだろう。

「潜裡眼」に載せてある私の瞑想方法は、私が長い間行なってきた瞑想で、そのおかげて今の自分の基礎が出来たと思っている。

しかし、今私はこのような瞑想はしていない。
何故なら、いつでもそのような意識状態になれるからである。

誰にでも言えるが、どんなすばらしい意識状態に到達したとしても、それは次なる世界のスタート点に過ぎない。

初めて体験するどんな驚きの意識状態であっても、大感動で心身が打ち震えても、それが最高の自分の意識だと限定ししがみつかないようにすると、必ずその先が見えてくるだろう。

そして自分が気づいた次なる意識は、いずれ自分にとっては当たり前の意識になり、またそれ以上の段階へと続いていくのである。

だから、どんなすばらしい意識状態を体験したとしても、それが悟りなどと、そんな低いレベルで悟ったなどと思わないほうがいいのである。

このように言うと、本当に神性を感じるような大きな悟りは誰にも来ないのかとなるが、真の意識の訓練をしていない者にいきなり来ることはないと、私は確信している。


結論的に言ってしまえば、「無」そして「無の世界」と言われるようなものは、どこの世界、次元を
見てもない。

どこの次元といっても、私の知っている範囲であるが、まず「無」って何だ、ということである。
そういう私も「無」という言葉は使っているが、それは単なる意識状態を分けて説明するためにそうしているだけである。

私が知っていることを話したとしても、この世的な知識や意味からかけ離れた説明をしては、理解できるものも逆に敬遠されることになるかも知れない。

「無」と「有」、こちらから見ればあちらは「無」、あちらから見ればこちらは「無」、高級界から見れば低級世界も「無」となるが、その場合は「無」と言うよりは、こちらの世界は実質のない幻の世界という表現になる。

どちらにしても、「無」という世界はどこにもなく、「有」の世界しかないのであるが、それは存在のあり方で顕現の形態が違うだけである。

結局高級世界、次元に触れるにも、「無」や「有」という観念だけでなく、その元となる時間の概念からも離れ、その意識すらなくならなければその世界を感じることはできないのである。

たまたま何らかの意識で、偶然にもそのような世界に一時的に入ることもあるが、それが起こりやすいのは睡眠時である。

私も睡眠時には、たくさんの不思議な意識体験をしているが、それを何とか覚醒時にそして自分の意思で動けるようにしたいと訓練している。

聖者方は、瞑想をしているような集中状態になるが、決して瞑想をしているのではない。
どうしてそのようなレベルにある方が、何を意識して瞑想をしなければならないのか、となる。

この方々は、違う次元や世界を自分の意思で動いているのである。
何故こう言えるか。

私でも考えていることは、この方々ははるかに超えていると思うからである。
この世と意識世界の広大さの違いを意識できれば、自分の心そして意識はさらに拡大していくだろう。

瞑想の一番いいところは、自分の心を落ち着け、心の静謐を保つということが出来ることだ。
そうなれば、自然に心から離れていけるのである。

心から離れる、これが瞑想の大基本。
心の波動から意識の振動そして潜在意識の振動へと意識を上げていくには、瞑想が一番いい訓練方法だとこれまでの経験上そう思っている。


そこで、日々瞑想を行なう上で、自己意識の変容過程を見つめながら進められる方法があるとしたらどうなるだろうか。

それは、「瞑想と自己を知る」を同時に進めていく方法になるが、同時といっても相互に関連させながらということである。

このような方法は、今私が研究している最中で、両方を教えるには徹底した説明をしなければならないが、意識レベルを高めるためにはかなりいい方法である。

その「瞑想と自己を知る」という自己探求は、結果として「あるがまま」の意識状態につながる。

もし、この「あるがまま」の意識状態を知ったなら、瞑想をすることなく意識集中で数十秒、いずれは2、3秒でその意識に入れるはずである。

では、「あるがまま」とはどういう意識なのか、これもはっきり理解している人はほとんどいない。
精神世界系などでは、自分らしさ、素直な自分、何もこだわらない自分、いつもイキイキワクワク、思いのまま、などこのような感じの意識が「あるがまま」として説明している人も多いが、はっきり言ってこれらとは全く別なものである。

「あるがまま」は、意識の何たるかを知り、徹底した自己探求の結果、この世の観念、記憶、時間を意識的に離れた結果現れる世界である。

その世界は、何かに集中することは一切せず、時間の意識的観念を緩めながら、今、この瞬間を意識しないで自己を保つことから入っていく。

そうすると、この世と分離した感じの世界が自分の意識を占拠してくる。
その意識の世界は、ただ透明感がすばらしくそして純粋そのもので、決してこの世の意識ではないということは、誰にも明確に認識できるものである。

当然、これだけに限らずその世界での充足感は言葉にできない。
それは、トランス状態やイメージなどでは起きない。

徹底した自己認識は、瞑想で最高に達しただけでは得られない智恵の意識化でもある。
最初のうちは、この世界に意識的に入ったとしても、それはこの世界の入り口に過ぎない。

その奥は広大で深遠、永遠、真理そのものだろう。
真の「有」の世界の入り口に立つことが、「あるがまま」の意識。

どの世界にも言えるが、この高級世界に入ったとしてもすぐ何か驚くべきことができるということはない。

まず、その世界をよく知り、その振動やその顕現に慣れていかなければならない。
そのようにしていかなければ、本当の智恵と力、創造性も発揮できない。

このことが解れば、この世で思われているような、高級意識に入れば何でもすぐ実現可能ということが、いかにおかしいことかが理解できると思う。


「あるがまま」の意識状態と言ってもほとんどの人はピンと来ないと思うので、私もこの感じを表す言葉が何かないものかと考えてみた。

そこで浮かんできたのは、「涅槃」(ニルヴァーナ)という言葉や、また、「無」という文字から、「般若心経」の解釈でも何か言えるかもしれないと思った。

「涅槃」(ニルヴァーナ)を思ったのは、何となくそのような境地だと感じ、般若心経は「色即是空」(しきそくぜくう)「空即是色」(くうそくぜしき)という言葉が、その感じのような気がしたからである。

仏教に関する本は、まだ真剣に読んだことがなかったので早速ネットで検索してみた。
また、一番簡単な数十ページの般若心経の本にも、ざっと目を通してみたが、結構「無」という文字も多かった。

いろいろなことが解ってきた。
このような意味が載っていたので、簡単にまとめてみた。

涅槃とニルヴァーナは同じ意味だと思っていたが、少し違うみたいである。
涅槃は、「さとり」〔証、悟、覚〕という意味のようだが、ニルヴァーナになると「吹き消すこと」「吹き消した状態」という意味になるようだ。

その深い意味は、煩悩(ぼんのう)の火を吹き消した状態ということで、滅とか寂滅とか寂静などと訳されるようになったとある。

結局、涅槃寂静は「人間の本能から起こる精神の迷いがなくなった状態」、「一切のとらわれやこだわりを離れた状態」という意味のようだ。

もっとわかりやすく言うと、「人生全般を通して、自分の自由な生き方を邪魔する、またその行為の足を引っ張るようなものから影響、左右されない自分になる」ということで、それは自分のネガティブ解消を意味している。

煩悩だらけでも、人が亡くなると、「死んだら仏さんになる」とまだ一部で言われているが、本当に仏になることはないくらいは誰でも知っているだろう。

死後に仏になるのではない。仏の意識に近づくことは、生きている間にすることである。
では、別な観点から見て、「般若心経」から「あるがまま」の意識状態に接近してみたい。

「色即是空」(しきそくぜくう)
「空即是色」(くうそくぜしき)

この言葉は、聞いたことがある人も多いと思う。
「般若心経」は、266文字からなる経典である。

上の言葉の意味は、簡単に説明しても難解そのものだが、要するに、「形あるものはそのままで実体ないものであるが、また実体がないことがそのまま形あるものとなっている」と解釈されている。

この説明で訳が分からないのは、この世的には正常である。
このような意味を、何の霊的知識もない人に説明し、解ってもらおうとすること自体無理があり、当然理解してもらうためにはこの世的な意味の説明となり本質からは遠ざかるのみである。

「般若心経」のすべてをよく分析したわけではないので、あくまで私なりに感じたことで述べてみたい。

この266文字に含まれている意味は、「実在」と「存在」を表現したもので、この内容の観点は実在側からのものである。

この真の意味を知るには、「無」の意味をどう自分なりに理解しているかで解釈のレベルは違ってくる。
「無」はない、神の世界にどうして、どこに「無」があるのか、と理解すればいい。

それは次元(霊的意識)の違い、そこに顕現している自己意識の違い、それを分かりやすく捉えやすいように高い意識レベルの世界を「無」としているだけである。

前にも説明したが、もう一度言うと、その高級意識の場から見た、こちらの世界は「無」とは言わない。

それを、実体のない幻の世界と表現するが、それも何のことやらとなる。
このような意味から、「般若心経」の真の意味は、この世的な意味で解釈すると理解不可能になる。


そもそも、「般若心経」は修行僧のために、解脱の道、仏意識に至る意識の道、克服すべき煩悩(ネガティブ)など、すべてを凝縮して、その完全理解のための心、意識の訓練を266文字にまとめたもの
である。

この266文字の意味を解説すると、何十冊の本になってしまうだろう。
それだけ「般若心経」を理解するには、人間の世界、意識だけでなく、霊的なことや法則など相当な説明をしなければ無理なのである。

この意識訓練の到達、ゴールが「涅槃寂静」であり、もっと理解しやすい言葉で言えば、「あるがまま」の意識状態ということである。

「涅槃寂静」に入れば、「あるがまま」の意識状態になれば、すぐ大いなる智恵と創造性を発揮できると思っている人もいるかもしれないが、しかし、そのようなことはない。

ないというより、すぐにすべてが可能になるということはないということである。
この世のことでも無意識の世界でも、一番必要なことは慣れること、要はどんなことにおいても慣れることが一番の近道である。

それに慣れてくれば、その世界をしっかり感じていられるようになる。
自分が深い意識に入っても、その振動に耐えられなければそこで自分を保つことは出来ない。

どの世界にも慣れが必要で、その境地に至った修行僧であっても、さらに高い意識と世界に向けて意識の修行に励んだのである。

その意識に入ったからもうすべて安心と考えるのはこの世的である。
安心し、気を緩め、そのうちその場の振動を忘れてしまわないように、しっかり自分の無意識に自分を意識化するように励まなければならないのである。

何故なら、その間隙を突いてすぐネガティブが忍び寄ってくるからである。
こうなると人生はいつまでも大変と思うかもしれないが、この境地の意識であれば、この世と比較するのはおかしいだろうとなる。

この世で通じる意味だけでは、何も真の理解はできない。

だからといって、霊的な意味から理解しようとしてもそれも無理である。
次元が違うものを、どうして解ることができるのかとなる。

思想、心理、哲学、宗教、精神世界を理解し超えるためには、どうしても自分の潜在意識に至らなければならない。

すべてにバランスよく意識を向けるためには、この場を拠点とすれば楽になる。
そのための基本となるのが、ポジティブネガティブの理解とその解消である。

また、そのための大基本となることが「自己を知る」ということになる。
その「自己を知る」という道を進んでいく先のゴールが、「あるがまま」である。