自己を知る

No. 13 自己を知る

「自己を知る」は、「汝自分自身を知れ」という言葉を短くしただけで同じ意味である。
「汝自分自身を知れ」とは、ギリシャ・デルフォイの神殿に刻まれた有名な言葉だが、誰でも一度は耳にしたことがあると思う。

ソクラテスの本は読んだことはないが、ソクラテスがこの言葉の真の意味を完全理解できたのは70才を過ぎてからと言われている。

ソクラテスは、この言葉の意味することを何才ころから探求し始めたかは知らないが、大きな悟りを得るには長い時間が必要なのかも知れない。

このことが事実とすれば、ソクラテスも随分長い間、自分自身の内で問答を重ねる徹底した自己探求の人生だったことがわかる。

ここでもう少し突っ込んで考えてみれば、「自己を知る」方法として、ソクラテスと我々とではどの程度差があるのだろうか。

ソクラテスは今から約2,400年前のギリシャの哲学者だが、当時のことを考えてみれば、自己探求、自己勉学のための資料はどれくらいあったのだろうか。

資料というのは、今でいうと心理学、哲学、宗教、精神世界、神秘学など、それらの専門書や指導書みたいなものである。

このようなことから単純な比較で推測してみれば、科学的に解明されている知識、それと心理や意識などの研究にしても、当時と今では雲泥の差があることは誰でも分かる。

単なる比較であっても、今の我々はこのようなことを探求するにしても、その環境は本当に満たされている。

自分が知りたいと望むどの分野であっても、それが詳しく解説された本は、本当にどれを選んでいいかと迷うくらい十分すぎるくらいある。

ソクラテスやその弟子たちが一生懸命熟考し気づき積み重ねてきたことは、我々が手を伸ばせばすぐ得られるのである。

その時代、ソクラテスがどんなに優秀な哲学者であっても、それ以上の知識や気づきがすぐ得られる現代に生きる我々と比較してみれば、自分に気づき自分を知っていく度合いは、条件的に同じと考えてもいいのではないだろうか。

では、それ以上何か違うか、差があるとしたら、それは何だろうか。
意識的な成熟度の差はあるかもしれないが、しかしそれだけで悟りの達成度が決められるものでもない。

やはり一番大事なことは、本人の内から出る、知る力、理解する力、そしてそれを貫き通していける熱意や真剣さだろう。

智恵は意識に関係し、それは内から来る、思考は心と脳だけが関わり、思考は意識を超えられない。
しかし、いくら意識だからといって知識が全く関係ないということはない。

求める意識世界に入る前段階として、知識と思考、それは単なる方向性の指示に過ぎないが、それがなくては何の行為も起きない。

とにかく、ソクラテスがしたように、我々もこの言葉を自分の内なる意識に向け、自分の意識の何たるかを理解納得(悟り)し、そして真の自己意識に気づくように自分の内面を見つめていくしかない。

もし、「自己を知る」というところまで達すれば、誰もが内的世界において、言葉を必要としない自分が確立されるだろう。

この目標到達に向かうためのすべての行為が、「汝自分自身を知れ」という言葉の意味である。
次にそれは、「あるがまま」の意識を開き、それと一体となった意識は霊的宇宙意識に突入していく。

この自由で永遠に広がる世界に比べ、思考の世界は何と小さな限定か。
すべてを含むこの意識から人間の潜在的本質を言い表したのが、ひとり一人の人間は完全平等で、神であるということである。

神であるということは、潜在的にその力を有するということで、それを人々の前で実証して見せてくれたのがイエスである。

イエスは、神の力、すなわち霊的な完全の力を我々に見せ、釈迦は到達の心、意識の訓練と制御の必要性を示してくれた。

どちらの教えや行為も、我々の意識に入れて、啓示してくれた意識の通る道を順序立てて進んで行かなければならない。

この二人は、人類の意識的進化の結果という見本であって、いつまでも宗教のなかに止まらせておくには寂しいかぎりだ。

イエスも釈迦も人類にとって一番いい方法を持って、我々の意識の進むべき道を示してくれた。
それを、我々が実際に見ていないから何とも言えないというなら、いつまで待てばいいのかとなる。
それほど、いつまでも待てるほど我々には時間がないのである。

このような方々は、奇跡的な現象を起こす方法も当然知っている。
では、何故、我々に教えなかったか。

力の言葉は、隠しておきたいからでも、我々が悪用するからでもない。
我々がその霊的原理を教えられても、それを理解し使えるだけの意識であるか、また少しも疑うことなく受け入れられるか、それが一番問われるところだろう。

本質的にはもっと深い意味があるが、とにかくそのようなものは文字としても残せないだろう。
今も同じだが、その当時の人々に、このようなことを言ってもチンプンカンプンだろう。

先ず、今、何が必要か、から優先されるのが順序である。
それは、現代にも同じことが言える。
現代でなくても、いつだってこの法則は変わらないだけだ。

これを知らずに、都合のいいものを早く欲しいといって探し歩くのは、精神世界のジプシーに仲間入りするだけである。

「自分自身を知る」ということを、難しく考えている人もいるだろう。
しかし、どんな勉強をするにしても自分があって、これが基本であるし、他人の意識を扱うわけでもない。

これが難しいからといって、人間の心を研究する心理学を勉強しても、いまいち解らないという点では同じである。

自分を知るとは、結局人間を知ることであり、結果、他人もよく理解できることになる。
一番よく知っている自分自身が、何よりもすばらしい研究材料である。

本当は、大多数の人は自分自身のこともよく知らないのであるが、まだ他人を考えるより自分を見つめた方が、より人間を感じることが出来るだろう。

この研究材料のほとんどは、自分のネガティブ、そしてもっと深く潜在して人類全体をネガティブ暗示で影響を与えているものである。

特別なことは何もないのである。
単純なことを難しく考え思い込んでいるだけである。

もし、神秘とか、意識とか、霊とか、何も知らない人でも、人間の潜在性に興味を持っていれば、自然に何の違和感もなく、その人をこのような深い意識の世界に引き込むことは簡単だ。

それは初めから理解させるのではなく、その人の印象に強く残るように、そしていつかそれが気になるように、潜在意識に働きかけるのである。

もちろん、その話はポジティブのみの世界になる。
間違っても、ネガティブや恐怖を印象付けるような話はしない。

正しい純粋な本質は、素直に受け入れる方が自分の進め方も楽になるだけである。
それは、鵜呑みにするということではなく、受け入れの心の態度である。

意識の成長の早さは、物事の見つめ方、意識の辿り方が問題である。

人間の意識やその存在自体の構造がどうなっているかなどは、それほど難しいものではないが、ただその影響とか支配されている自分をどのように解放していくかということが、一番つらく問題となるところである。

それは、そのための勉強そして訓練的なことも必要だが、修行というような言葉で捉える必要はない。
人間である以上、そして誰もが魂とつながっている以上、人間の意識や智恵に関する本質的根本的な部分の探求は、古代も現代も変わらないし、各自の意識的完成まではこれから先も人類が存続する限り続く。

では、どうしたらこのような「自己を知る」行為に足を踏み出していけるだろうか。
人それぞれ、年齢的、人生経験によっても意識レベルの差はある。

精神世界や宗教の本を読んだ、また勉強しているという人はすんなり入っていけるかもしれないが、何も知らない人では、まず足場固めが大切である。

やはり最初は理解が出来なくても、心と意識、無意識、神秘、霊的世界などに興味を持ってその世界に馴染むしかない。

霊的な本もいいが、なるべくなら低級な心霊的、心霊現象的な本は避けた方がいい。
何故なら、私の経験から言えば、そのような低級波動はいずれ自分の意識から分離させるものであって、それを知っていることやそれに関わっていても何も自分のプラスに働かないからである。

そのことをある程度知っている人は、そのことがいかに自分の将来とは無関係でつまらないものかだけをしっかり持っていればいいのである。

ポジティブ意識に向かうのに、どうして低級波動を気になる必要があるか。
ポジティブ意識であれば、自然に低級波動をはねつけていくのが自然ということである。

私は低級波動の正体を知っていたから、はじめからそうしているのである。
心霊的なものは、ある程度自分の意識が強くなってきてから、全体を知る上でその知識もあるという程度で知っていけばいい。

自分を知るとは、自分のネガティブを知る、そして気づくということになる。
ネガティブを野放しにしておいて、いつか自分のネガティブが自然に消滅していくということはほとんどない。

無知なため、小さなネガティブに苦しんでいた時期があっても、自然な自分の成長と共に内的理解が進んでその影響を受けなくなるという場合もあるが、ほとんどの人はネガティブな思いを引きずっていくものである。

ある程度年とって、「そんなこともうどうでもいいや」と投げやりになって気にならなくなることもあるが、それは本当の解決ではない。

でも、こんなやり方にも重要なヒントが入っているのである。
「ネガティブを自分から離す」ヒントである。

一時的であっても、それを継続できるようになれば、その継続がネガティブの正体と力を見抜くヒントになることもある。

すべて、自分に対する注意力、そして観察力、それに全体的なリラックした集中力などが必要で、どれをとっても自分に役立つものが訓練の対象になるのである。

「自分を知る」、それは自分のネガティブが相手ではあるが、自分を強くする自己強化訓練でもある。

宗教、哲学、精神世界の勉強をしながら自分自身のことも深く探求していくのが、その両方を生かす一番いい方法である。
自分自身を知るほど、潜在的能力の発揮の仕方や高め方も分かってくる。

どんないやな、また見たくない自分のネガティブであっても、一時的に苦しんでもそれを解消できる方向に持っていくか、それともそのまま逃避を続けて一生いやな感じを抱えて生きていくか、どちらを選択するかだ。

普通は何も知らずに、ネガティブを引きずって生きていく。
何も知らないから、それ自体は逃避ではないが、人は、それが人生というもので人にはついて回るものだとあきらめている。

普通の世に流された生き方をしていくならこれでも仕方ないが、潜在意識の理解を目指すなら、これは超えていくものである。

要は、この超えなければならないもの、それを超えるための訓練自体が自己向上なのである。

自分の意識を高める方法としては、ポジティブを高めるか、それとも自分のネガティブを減らすかのどちらかになるが。

私の経験上、もちろん両方を試してみた結果であるが、ポジティブだけを見つめ意識化しようとそれだけを高めてもみた。

しかし、肝心なところで躓いてしまった。
それは、ポジティブで自分の意識をどんなに満たしたとしても、完全な意識状態に近づかないかぎりは「解らない」ということがどうしても出てくる。

これは、どんな意識レベルになっても付きまとうものである。
そのとき、足踏み状態のとき、自分を引き戻そうとするネガティブが邪魔に入る。

そのネガティブのワナにすんなりはまってしまうと、心身共に最悪の状態で苦しむことになる。
それで私が進めてきた方法は、ポジティブを優先しながら自分のネガティブもすこしづつ解消させるようにしてきたことである。

当然、自分のネガティブの種類も知っておくべきである。
この微妙なバランス制御も、最終的に自分には大きな力となってくるのである。

反対に、ポジティブだけでその気になって、「私はいつも最高で幸せ」といって恍惚状態になっている人は、実際はただの夢の中にいるにすぎない。

本人はそれで幸せでいいではないかと思うかもしれないが、我々には輪廻転生の法則が働いていることを忘れてはならないのである。

今回のテーマの内容を理解してもらうには、まだまだ全体的な説明が必要である。
今月からブログを始めたが、その中で説明していくことは、結局「自分に気づく」ということが中心となる。

それは、「自分自身を知る」ということにつながっていく。
自分に気づいて自分をどうコントロールし、また指示命令し、そして自分の意識を高めていくか。
そのようなことが解ってくると新たな自分を目指す楽しみにもなるだろう。

一般公開のブログと言っても、私が対象としている人は、私のセッションを受けて勉強している人や、「潜裡眼」そしてこの「七光導」を毎回読んでいる人になる。

このように、自分の意識を高めようと勉強している人は、自分の意思がはっきりしているので、私もフォローしたいという思いがある。

セッションで話したいことはたくさんあっても、時間的な面で無理がある。
また、この程度の文の量では、ポイントを述べるだけになってしまう。

私の知っている、意識的なことを本にしてしまえばいいのだが、それも考えてみたこともあったが今はその気力がない。

何せ、25年の間、休むまもなく毎日意識の中はたくさんのことで渦巻いていたからである。
すべてをかけ、一日も早く完全満足の意識になりたいために一心に励んできた。

うつ病で言えば、「燃え尽き症候群」の一歩手前くらいになっていた。
ようやく自分が満足できるような意識に達し、すこし余裕が出てきたのでブログにも手をだせるようになった。

今回のブログは、本としてまとめる前にたくさんの項目を整理するための下書きや準備として考えている。

ただ内容的には、分かりやすいということに重点を置くつもりであるから、極端に深い部分には触れるということにはならないだろう。その部分は、この「七光導」で書いていきたい。

ブログは、これから長く続けていきたいと考えているので、1年、2年と読むにつれて、潜在意識が同調しその方向で働き始めて行くだろう。

その結果の意識が「七光導」につながり、それを超えたければ、もしそのレベルにあれば道は自然にあなたの前に現れるだろう。