意識の不思議

No. 16  意識の不思議

意識というのは実に不思議なものだが、その神秘性の理解が進むにつれ、これまでの自分とは違う視点の移動ということにも気づくだろう。

意識的視点の移動は、その移動した分、自分、物事、他人といった、それまで気づきもしなかったその背後にある意識が分かるようになるのである。

低級霊から心、意識、潜在意識そして霊的意識、真理の世界、これらの範囲で作る意識空間枠の中に、どんな人でも今の意識状態を位置づけることが出来るのである。

心理的分析による心なら平面でも位置づけられるが、しかし意識は平面で位置づけすることはできない。

人間は、今示した意識を超えられない以上、この意識限界の中のどこかに位置づけられるということになる。

ということは、この世の物的限界(心)を超えても、その先には意識の限界もあるということである。
今の我々の意識は高級次元へ向けて存在から実在へと戻っていく過程にある。

存在と実在の違いは、幻と神の違いとも言い換えられるが、その根本にある原理は実在でしかない。
もっと解かりやすく言えば、消え去るものと、消すことのできないものとなる。

これらはすべて意識であるが、その振動レベルでの顕現が次元の差となっている。
今、この世と言われる物質世界の心から、意識へ、さらに集中して潜在意識そして無意識へ、そこから魂に無意識同調によって異次元の世界へと段階を通っていく。

この順序は、我々にとって基本的なことで、心、意識、潜在意識を分けて理解していくにも、またいろいろな本を読んでその深い意味を理解していくためにも必要である。

いつもこのようなことを意識し思考していると、早く潜在意識という意識のカラクリにも気づきやすくなるだろう。

その段階を訓練し、その場の振動を潜在意識に覚えこませ、潜在意識と無意識の交流をスムーズにさせることにより、次の段階へとさらに道は広がる。

この場では、波動で感じるということはあまりにも物質的になるので、やはり意識で感じる繊細な振動という言葉を使った方が、これから意識の世界を説明するにも分かりやすくなる。

外側だけを見ていても答えは見つからない、また無い。
満足できる答えが欲しければ、意識の中から得よ、となる。

この世から見れば、またほとんどの人から見ても、このような意識の話はまったく理解不能なことと言えるかもしれない。

また、このようなことは特に関係もないと言うかもしれないが、みんな特殊能力を持っているのに、何故使えるように訓練しようとしないのかと言いたくなってしまう。

意識とは何か、意識は思考ではなくある内的感じとなるが、それは、すでに解かっているという感じでもある。 もちろん、その解かっているという感じにも度合いはある。

人は、知っているという意識の範囲では安心でき、知らないという無意識の壁にあたって不安となる。
もちろん、知っているという高度な意識レベルの中にもいろいろな段階はある。

我々の意識的進化の到達点がイエス、釈迦、聖者方で、これらの方の意識が最高レベルということである。

その手前までなら、努力すれば何とかなるだろうとは思うのだが、これも自分の努力次第。
意識の段階を上がるにも、いきなり高いレベルに達するということはない。

先ほど書いた意識の順序をよく理解していれば、いろいろな人が言うことも分析しやすくなるだろう。
ある日、いきなり啓示を受けたからとか、お告げがあったからとか、また大きく悟ったからと言って、その高い意識レベルに到達しているというのはほとんどウソである。

聖者方も努力、意識的訓練を重ねてそのレベルに達したのであるのに、どうしてすぐにその方がたを超えられるのだろうか。

意識の向上が早いか遅いかは人にもよるし、また持って生まれた前世意識も関係するだろうが、どちらにしても過去の人生で正しい努力をして来たか、そして今、しているかだけである。

一般の人には分からないことがある。
この世を悟ったのか、霊的法則を悟ったのか、全を悟ったのか、もちろん全を悟ったならこの世の意識では無い。

神秘、霊の世界は、まだまだそれを説明する言葉が足りないだけでなく、現在もまだ混沌としている状態である。

この勉強をする前の私は、それは20代のころであるが、どっぷりこの世につかっていた。
心がどうのこうの、せいぜいこんなレベルで、ああでもないこうでもないの世界でふらふらしていた。

今振り返って見ると、今自覚している意識の世界からその頃を眺めてみると、まるでアリのコロニーのような世界で生きている自分がよく見える感じである。

私は長い時間をかけ、意識段階というものを、一つ一つ本当に実感してきたと思っている。
意識、それは安心感の度合いで示される、内的な感じの場とも言える。

内的に安心感で包まれていれば、その周りには当然幸福感もあるのであって、それら全体は満足感でつつまれている。

この順序を変えてみても内的な感じは非常に似ているので、あとは顕在意識とか感情の反応によるその欲求を満たす内的感じに変わるのだろう。

我々が物質的に大満足していても、それを喜んでいるのは意識であって、それが肉体のリラックスや余計な緊張解除となるのである。

このような意識状態に訓練で持って行くには、その奥にある真理の意識的理解となるが、これもまた思考による理解とは違うのである。

意識は、どうやっても説明することが難しいのは、それは感じというもの、内的にただあるというその感じだからである。

それは、その意識のレベルによって、ただ知っている、解かっている、そのもの自体となるのであって、それも言葉で言えば感じである。

その感じの中に、すでに知っている、智恵となって発現できる、これもまた意識として一体化しているとなるのである。

この感じということを意識的に理解できれば、悩みの解決も早くなり当然その理解は意識成長へ、それも急速に向上していく可能性もあるのである。

その意識はどこから来るかそれははっきり知らないが、それでもそのままそれ自体が自分と直結している世界とも言える。

集中が奥へ向かうにつれ、意識がどんどん自分の中心に入っていくにつれ、その感じは光の感覚的同調へとなる。

光という感じは、わかりやすくするために使っているのであって、本質的に感じるのはこの世的な光ではない。

光は、見えるものの中では人が知ることができる神に一番近いものと感じているかもしれない。
この世の心から離れれば離れるほど、霊や神に近づけば近づくほど、意識で感じたり、見えたりする世界は明るく軽い世界であることには間違いない。

それは、その場の振動に過ぎない。
光は振動であり、その振動は光となっているかもしれない。

瞑想で光をイメージすることもあるだろう。
我々は瞑想をするにあたって、光を強く意識することで、潜在意識の調整で光を見ることもあるだろう。

しかし、その光は自分のイメージした潜在意識に入った自分の潜在意識が創造した光であることもある。

だから、瞑想のとき光をイメージすることに、私は反対であるし、そのようなことをしないように説明する。

ただ一般的にする瞑想と、自分の潜在意識、潜在能力開発のための瞑想は違うのである。
なぜなら、我々の意識は光というものに限定して、それを最高としては次の段階に進むことが困難になるからである。

すべてを作っているのは、振動であり、すべての段階は振動の表現である。
意識は永遠、そして自由である。

だから、その自由を束縛しない表現である自由な振動の中を意識で動いて行く、また感じて行けば、どこまで進んで行っても抵抗はないのである。

この世で言われる最高は、すべてではないが見える形で表現されたのも多い。
今でも、まず見える形から信じたいというのが人の心理である。

しかし、そろそろもっと違う表現を受け入れて行かなければ、いつまでたっても意識的にも足踏み状態を続けることになる。

見える形としても、見えない波動振動的なものからでも、結局はその始まりは知らないことからのスタートでしかない。

いずれその段階に入って行こうとするなら、はじめは大変でも、結局慣れ親しむことで自分の潜在意識の調整も動き出すのであるから、あとは何をどう自覚して進めて行くかだけである。

潜在意識へのインプット、これは慣れで解決させることも可能である。

真の能力開発、自分の潜在意識の活性化、意識から来る敏捷性、鋭敏な意識の育成、直感の識別、潜在意識の調整まで考えて、これらはすべて見える形のイメージで進めるより、何度失敗つまずいても意識、振動の感じに触れて行った方が最終的にはいい結果になるだろう。

私は、伝統的な方法やこれまで一般的に知られているような方法はほとんどやって来なかったし、またその必要もないと思っている。

我々の真の正体は意識である以上、意識の訓練で本来の自分に近づくしかないのである。
いろいろなことをやっていても我々の意識は一つである以上、どんなものでも関連させて刺激しあって全体を高めて行かなければ意味がない。

一つだけの、一つのための意識というのは無いのである。
どんな人の意識も全の中の一つということであるので、どんな意識も完全分離した意識というものは無いということになる。

このような見方が始まれば、またいろいろと隠れている真実が顔を出してくるのである。

今、霊的方向に向けて直線的な意識の段階の話をしてきたが、少し話を変えて、霊的方向を縦軸として今度は無意識レベルを基点に横軸の流れと言える、これも意識の段階であるが輪廻転生の意識を分析してみたい。

結局、何事も、この世に現れる自分の結果は、自分の過去の姿や過去世と言われるそのときの意識ということになる。

神の完全なる意識、そして霊的法則からみれば、誰もその真実に抵抗できるものはいない。
完全なる意識というこの完全という言葉自体、たくさんの説明が要ることも事実であるが。

我々は無意識にそのような過去世の意識を今生の自分として引き継いでいるのであるが、その引き継いでいる意識も無意識から潜在意識に印象付けられているだけである。

それを、今生の自分の意識として、自分の性格として自分自身を生きているということである。
どんな才能も頭がいいということも、すべて作られたものに過ぎないのである。

それは、どんな優秀な人物であっても、天才であっても、聖者レベルの本質意識とは比較にはならないからである。

願望実現のヒントはここにあるのであって、よく分析して理解していけば、その意識状態に近づけるかもしれない。

誰にも内的意識の創造力があり、それが現れる今生の結果は、過去世で何に真剣に取り組んでいた意識かで決まるだけである。

当然、その意識は生きている人間である以上、いろいろな意識状態すべてということである。
そのカラクリを知ることにより、今生の自分の苦痛もかなり解消できるのだが、それも意識の理解が伴わないと人は信用しない。

単なる理解不足と、信じられないということだけで一生悩んだり、自分の人生を良くできないというのは、そのカラクリがある以上、知らないだけということが非常に残念に感じてしまうのである。

人はどうして、こう頑ななのか、何故、自分を自由にしようと試みようとしないのか、何かを得られることはあっても何も失うことは無いのにと、つくづく思う。

よくよく理解していないと、今の恵まれた才能や優秀な頭も、来世は使えないこともあるのである。
この話を信じられるかどうかは、これを読む人の意識次第である。

生まれ変わり、輪廻転生に関する話も、深い分析、霊的推測で全体(神も含めて)を結び付けて一つの結論を出していけば、いろいろな人が言っていることとは違うこともある。

どんなことでも、非常に深い本質的な面や霊的法則などを当てはめ分析していくことで、かなり深い理解が得られるのである。

そうすれば、誰かが適当にカルマとして結びつけたり、先祖の因縁に結びつけたりしていることでも本当のことが分かるのである。

憑依の正体だけでなく、何でもこのようなはっきりしないものに、自分から縛られに行くことはないと言いたい。

そうは言っても、恐怖に縛られていたりそれを信じている人には、無理かもしれないが。
そのような人は、この人生も意識のマヒの中で生きるしかないだろう。

意識段階を知り、そして向上していくことは、未知なる不安恐怖からの解放にもつながる。

いろいろな角度から気づかされることによって、そしてヒントや答えを得て、意識の成長とかレベルアップして行くのである。

それは、自分の内的意識で感じる何ものにも変えられない幸福感でもある。
輪廻転生の理解を、もっと我々に役立てられることはないかと考えたものがある。

過去世からの無意識レベルの自己意識の引継ぎということで、私はこれをホロスコープ解読に役立てている。

ホロスコープ解読は占星術であるが、私が行なうホロスコープの解読は占いではない。
隠れた自分の意識を知る方法で、それをいかに今の人生に生かしていくかということが目的である。

私は、占うという行為は絶対しないが、また占いというものにもまったく興味がない。
次回は、このホロスコープ解読による隠れた自分の意識をどう役立てていくか、その説明を予定している。