不思議分析

No. 20 不思議分析

今回は、私の不思議体験の中から、潜在意識の不思議を気づかせてくれた体験について説明していきたい。

次の茶色の文は、「私の不思議体験」に載せてあるのと同じものである。
その内容を元に、さらに細かく潜在意識について説明していくので、そのまま全文を載せてみた。

この体験の内容は、本当にいろいろな意識の不思議が重なったものだが、それを偶然としてしまうにも無理がある。

私はこの体験によって、そのあと潜在意識の理解が飛躍的に伸びて行ったのである。
まず、次の文を読んでもらって、それから説明に入りたい。

(登場する3人の名前は仮名で、歴代総理の名字にした)

以前、私が会社に勤めていた時に経験した、同僚の死に関連する不思議な話である。
その日は同僚の小渕さんと二人で残業し、会社の前で別れた。

それから8時間後に彼は亡くなった。死因は心不全だった。
寝たままで息を引きとったらしい。一般的に突然死といわれるものだった。

その日私は、ずっと彼と一緒に働いていたが、仕事中は特に何も感じなかった。
しかし、「フッ」と何かが違うと感じたのは、彼と別れる30秒位前のことだった。

それまでは何も感じていなかったのが、急にこの瞬間だけはっきりと違う感じがした。
彼が先にドアから出るように、私がドアを開け、ドアの上の方を手で押さえていた。

そして彼が先に出た。
その時私は、「えっ、こんなに小さかったっけ」と思った。

つい先ほどまで彼を見ているだけに、とても異常に感じたのである。
それほど小さくなった気がしたのである。

顔も先ほどまでとは違う、青ざめているというより、何か色あせていた。
少し難しい表現をすれば、体をささえている骨がないような感じで、内から出る力も感じられなかったのである。

これは見た目だけでなく、第六感・オーラなどで感じていたのかもしれない。
私はその夜、夜中の2時頃に急に目が覚めた。私はいつもと違う特殊な感じに浸っていた。

彼とは思わなかったが、身近の誰かが死んだということはわかった。
このような感じで人の死がわかる時は、今までにも数回あったからだ。

私はこの体験以来、人にある生命力の量の変化をある程度感じとることができるようになった。
彼は死の数時間前には、すでに生命力が入ってくるのが止まっていたのではないか。

そうなると、後は自分の体の細胞再生ができなくなり、極端に目立つとは思わないが肉体の萎縮が始まっていたのだ。

肉体を維持するための生命力の量が、その限界を超えれば肉体の機能が果たせなくなる。
生命力は絶えず体に流れ入って来るものであり、生命力と寿命は別のものである。

この話には、まだ前後につながる話がある。
ここでは新たに二人出てくるので、話をわかりやすくするために、仮の名前をつける。

私の同僚は、小渕さん、そして同僚の近所に住んでいる二人を、佐藤さんと田中さんとする。 
話は、小渕さんが会社を休むことになったことから始まる。

理由は近所の佐藤さんが亡くなったため、葬式に出るという事だった。
そして翌日、会社で小渕さんから、佐藤さんの葬式の事を聞いた。

佐藤さんが亡くなった原因は、はっきりしていないという事で、原因が分からずに急に死ぬ、ポックリ病(突然死)ではないかということだった。

そして近所の田中さんの事に話が移った。それは田中さんの見た夢の話であった。
小渕さんが言うには、田中さんは夢の中で、葬式の前日に亡くなった佐藤さんに会い、佐藤さんから「○○を持って来てほしい」と頼まれたというのである。

(○○というのは書類のような物だったと思うが、はっきりと記憶していない。)
それから5日後、また小渕さんが会社を休む事になった。

理由は近所の田中さんが亡くなったので、葬式に出るという事だった。
私は少し驚いて、この前話に出た田中さんのことなのかと聞いた。

小渕さんは、うなずいて次のように言った。
「田中さんは、佐藤さんに○○を届けに行ったから、帰って来られなくなったんだ」と。

その翌日また葬式の話になり、小渕さんが言うには、田中さんの死因もはっきりしていないという事がわかった。

ところが偶然というのは重なるもので、小渕さんも葬式の前日に田中さんの夢を見たというのである。
それは田中さんが写真を見たいから、小渕さんに持ってきてほしいという夢だった。

写真というのは小渕さんが趣味で撮っていた風景写真のことである。
そして小渕さんは、「自分も、田中さんのように写真を持っていったら帰って来られなくなるかも知れないな」と、冗談のように言って笑っていたのである。

それから5日後、小渕さんが亡くなった。 死因はすでに書いている通りである。
一週間に一人ずつ、しかも近所の顔見知りで、同じような死因で、三人も連鎖して亡くなる。

後の二人は、まるで呼ばれているような感じさえある。
私はこれらの内容を直接小渕さんから聞いていたので、驚き以上に何か不思議なものを感じていた。

だがこの話は、まだ続くのである。
彼の葬式が終って2週間後、私は彼の夢を見た。

それは山々に囲まれた花のたくさん咲いている道で、彼が向こうから歩いて来る夢だった。
私は彼に気づき、彼の方へ歩いて行った。

しかし彼は、遠くのほうに目をやっていて、私のことには気付かないのである。
彼の目はうつろで、私からみれば、自分が死んだということに気づいていないようだった。

これが1回目の夢である。
次に彼の夢を見たのは、その後しばらくしてからである。

その夢の内容は、自分にとって大変危機感を覚えたものだった。

私は夢の中で、電車に乗っていた。
どこに行くということではなく、ただ乗っているだけであった。

そして無人の駅で降りた。
駅から続く道を歩いていくと、休憩所のような小さな小屋が見えてきた。

私がその前を通りすぎようとした時、小屋の中に一人の人が見えた。
その人はこちらに背を向けて遠くの方を見ていたが、私には誰だかすぐ分かった。

「小渕さんだ!」と思った。  彼はこちらを見ようともしない。
彼はそのままの姿勢で、私の心に感じるように、ひと言いった。

「待っている!」
それは言葉ではなく、ただ、はっきりと私の意識で分かるというもので、彼が私をここに呼んだのだということは疑いのないことだった。

私は、一瞬「どきっ!」とした。
なぜなら連鎖した死のことを思い出したからだ。

私は夢の中でありながら、現実と変わらないショックと危機感で動揺していた。
この後、気がつくと、私は帰りの電車の中にいた。

これは非常にまずいことになったと思った。
そして、彼が本当に私を待っているか、再度確認するために、その場所に戻ろうと決心した。

次の瞬間、私は彼がいる小屋の近くに移っていた。
私は彼に気づかれないようにそっと小屋に近づいて、彼がいるかどうかを確認した。

彼は同じ姿勢で遠くを見ていた。
彼は背中を向けていたが、私が来たことを知っていた。

そして彼は私の心に強く言った。
「絶対来るまで、いつまでも待つ!」

私はここで目が覚めたが、その日から、どうにかしなければという心配と焦りが始まった。 
早くなんとかしなければ、いつ何が起きるか分からないと、恐怖に駆られていたのだ。

数週間がたち、私は何も手の打ちようがなく気落ちしていた。
そんな時、私は何となく自分のなかで、彼に関することを考えていた。

彼は大変やさしく、とても良い人だった。
しかし彼が抱えている問題は、私からみても気の毒なものだった。

私は彼から家庭のことなどで深刻な悩みを聞かされていたのである。
私は深い同情を、彼に持っていたのである。

このようなことを考えているうちに、私は気が付いたのだ。
私は自分のあまりに深い同情心が、自分の潜在意識に入り込み、それが彼の波動と同調したためにこのようなことになったと確信したのである。

そこで私が行なった事は、彼をイメージして、彼に向かってこう言ったのである。

「私はあなたに深く同情をした。しかしそのために、今、このように苦しんでいる。
あなたは私の同情を逆手にとるようなことをしている。
あなたは死んだ。
私はあなたに今は何もしてあげられない。だから、この同情という想いから縁を切る」と。

私はこのあと、心身ともに軽く楽になっていくのを感じた。
私は、これでもう大丈夫だと確信したのである。

もし私が何も気づかず、何もしていなかったら、いったいどうなっただろうか。
死ぬということはないにしても、嫌な想いと不安を持ちながら生きていく事は避けられない。

そのせいで体調を狂わし、病気になる可能性もあるのだ。
このようなことを他にも体験している人はいるだろう。

いろいろな要素や偶然が重なると、その印象が人の意識に強く定着することがある。
ある悪い印象が潜在意識に入り込むと、人はそれに支配されてしまう。
だがこれは、すべてを冷静に見つめることによって、乗り越えることができるものだ。

以上であるが、この文はずっと前に書いたもので説明が足りなく分かりにくいところもあるかもしれない。

私自身もここまでいろいろな不思議が重なった体験は初めてだった。
この体験の後、いろいろな角度からこの内容を分析することで、それまで潜在意識について気づくことが出来なかった謎がいろいろ解かり始めていったのである。

大多数の人が不安や恐怖を抱く霊的なことや、死や、不幸不運に関する見えない陰の力や、また憑依などこれらすべてには低級霊的なことが関わっているのだろうか、そのような見えない力が原因でそうなるのだろうか。

現代の無知の一つは、過去の言い伝えや現象などを未だ不安と恐れという感じで受け継いでいることである。

私の研究の結果、これらのほとんどは低級霊が絡んで引き起こしているのではないと確信している。
そのほとんどは、人の意識、それも潜在意識の理解不足による自ら引き寄せる不安恐怖である。

その真実や本質部分を何も知らないということで、結果的に自分で自分を苦しめているということである。

そのネガティブに囚われ完全に支配されれば、精神異常、病気、そして死につながっていくこともある。

潜在意識の真の理解はともかく、それにも気づかずに生きている人がほとんどだが、それは人生全体を左右支配できるものなのである。

どちらにしても潜在意識を理解してもらうためには、たくさんの話をしなければならない。
潜在意識と言っても、それはいろいろな意識が内的に関連しているものだから、一つの意識だけを取り上げて潜在意識の説明とするには難しい。

新たな気づきの意識を理解してもらうためには、それ以上の内容、すなわちもっと深く高いレベルの知識を持って説明して行かなければならない。

その方向は、意識、潜在意識、霊的意識という説明になって行くので、おそらくその説明を聞くにもすぐに疑問が出てくるということになる。

また、もし潜在意識という世界を深く理解できたならば、ほとんどの人が持っている不安恐怖はほとんど消えてしまうだろう。

それだけではない、まだ一部の人が信じている潜在意識による願望実現の方法とか、潜在意識による能力開発の方法とかいったものにも誰も振り向かなくなるだろう。

潜在意識を活用してどうのこうの、というのはまだまだ多い。
潜在意識を活用するというのは、潜在意識をよく知ったものが言うことで、そのようなことを言う人は一体何を知って何を根拠としていっているのだろうか。

私がこの不思議体験の内容で一番恐れたのは、夢の中での「待っている!」という言葉だった。
なぜなら、それは予知夢であったからである。

予知夢として見る夢は、すべてが現実そのものといった感じで、普通の夢とはまったく違うものである。

分かりやすく言えば、目覚めた後でも、現実に映画を見たすぐ後のようにその場面がはっきりしているのである。

それまでもこのような予知夢は、かなりの確率で当たっていたのでこのときは本当に焦ったのである。
この夢は、それまで見てきた夢にはない私自身も不思議な感じを持った特異な夢だった。

夢の中であっても、自分が不安と迷いの中でいろいろと考え込んでいる点も全く現実と変わりなかった。

特に、彼が本当に私を待っているかどうかを確認するために、その場所に戻ってみようと考えるところなどは、夢の中であっても自分の意識としてかなり恐怖が強かったのだろう。

この夢がきっかけだと思うが、夢を通して人は自分の意識状態とかそのレベルを知ることが出来ると思った。

自分の意識が成長してレベルが上がれば、当然夢の中でもしっかりその意識としての自分が現れるということである。

これ以来、私はいつも夢の内容を判断しながら自分の意識レベルの段階を確認してきた。
どうでもいいような夢ではこのようなことははっきり分かりにくいが、ある程度しっかりした印象的な夢であれば、自分の潜在意識の反応としていろいろなことを分析できる目安となるはずである。

夢という無意識の中の作用は、特に深い自分の意識である潜在意識がはっきり出てきやすいので、印象の強い夢を見たときはチャンスである。

もちろん、潜在意識の調整によってはっきり意味の分からないもので置き換えられることもあるが、それでもよく読めば理解できることも多い。

私は夢においても、いつもこのような見方分析をしているので、よく本などに書かれてあるような単純な夢判断はしない。

夢も自分の意識であるから、それなりの利用の仕方があるのである。
願望実現のための強い思い込みなどによっては、潜在意識化されたものが夢となって現れ、本人は願望達成のすばらしい夢を見たというかもしれない。

これも潜在意識の調整で起こりうることであるが、それが単なる夢で終わらせるかどうかはこれもまた本人の思い込み次第である。

ただ、この思い込みしだいでは、その人の将来が変わることがあるので人の意識は不思議でおもしろい。

一般的に、潜在意識に関することは本人の固定観念による決めつけで解釈されるものである。
固定観念も潜在意識であるから、このところをよく理解すると潜在意識というものの構造も分かってくるだろう。

人の意識も、その本質を知らないということである面いいように展開することもある。
変な言い方であるが、潜在意識にうまく騙されることで思わぬ幸運の機会を得ることもあるのである。

ただ、このようなことや願望実現で一度目はうまく行っても、「柳の下に2匹目のドジョウはいない」ということである。

これも潜在意識の仕組みを理解することで分かるのであるが、こうしてほとんどの人が2度目に大きくつまづくのである。

この話も詳しく話すと結構面白いのだが、いつかブログで書こうと思っている。
これも私がよく使う言葉で、潜在意識の調整というものの一つである。

潜在意識を知ることは、潜在意識の調整の内容まで入らなければ人が納得するような説明は出来ないのである。

今回説明のために載せた不思議体験は、登場する3人が同じような内容で、また死の原因や状況もほとんど似ているという点だけでなく、それもつぎつぎに連鎖するという不思議な出来事だったが、それと潜在意識がどう関係しているかということになる。

「死への誘い」という感じが普通の人は想像もつかないだろうし、実際そのようなことが起きたと仮定しても、イヤだ気持ち悪いとはいうかもしれないがそれ以上の心境まで想像することは無理だろう。

それが、この2人、少なくても私の同僚が感じただろう複雑な不安恐怖の意識状態は、現実に同じ流れの延長上で私自身も体験したことでそれがどういうものかが説明できるのである。

この2人が見た夢の内容まで分からないが、それは私自身が見た夢から大体察しが付く。
実際それはかなりショックなものであった。

私はそれまでに7年くらい意識的な勉強をしていたのと、このような予知夢も結構見て来たので、少しは冷静に捉えることが出来たので救われたかもしれない。

しかし、このようなこととは全く縁のない人は、昔から聞かされてきた「死への誘い」や「死人から呼ばれる」といったことに大きく自分自身が飲み込まれていったのかもしれない。

「死への誘い」それが夢に現れて、それも前例があっては、それが単なる夢だと分かっていても、本人の意識としては自縄自縛状態になっても不思議はない。

意識の勉強をしていた私でも、このときは本当に焦ったのである。
それは、早く何とかしなければならないという恐怖からである。

本当にいろいろなことを考え、分析し、深い意識に入って自分を見つめることが出来たことで、何とかこの状態から脱出することが出来たが、その間の日々はたえず緊張状態でこれから一時たりとも離れることはできなかった。

ちょっとした油断が、死や取り返しのつかない事態につながるかもしれないと思っていたからである。
私が体験した予知夢では、本当にいろいろな不思議な意識体験も多くしてきたが、夢によるそれから来る不安恐怖は意外に強烈なものなのである。

何故なら、潜在意識が非常に近く感じられるからである。
今気づいている自分、心、そして思考、そんなものよりそれらを無力にしてしまうくらいの圧倒的な力を内的に感じるからである。

では、この内容を分析してその深い意味を説明してみよう。
潜在意識は、自らの命を絶つようにさせることもできる。

これは憑依という現象を、形を変えたものと言ってもいいかもしれない。
潜在意識の面白さ、不思議さ、強力さなど、私は本当にいろいろなことを知っている。

潜在意識をしっかり理解しなければ、いつまでたっても、偽り、惑わしなど、この世のネガティブからは離れることも無意識的に左右されなくなるということもできない。

憑依的なことも、前世的なカルマも、低級霊的現象も、その他宗教、精神世界、霊性の理解もすべてこの潜在意識の理解があればこそ納得できるのである。

潜在意識の理解こそ、人間意識の中心でありすべての本質理解の基本となるべきものである。
宗教や精神世界などは、人間にまずこの潜在意識の世界の理解を促していると考えてもいい、またそうした方がすべての理解が早い。

私の言う潜在意識の説明のすべてが正しいかどうかではなく、まずそれを理解してからそれに対する答えを出すべきであると思っている。ただ、いつになったらその潜在意識の全容を説明できるのか、受け入れてくれる人が少ないかぎりは説明しても「労多くして功少なし」となる。

たえず変化する潜在意識、すべての対象によって変化する潜在意識、それが内的に複雑に影響しあって全く自分の考えたものでないものまで創りあげる潜在意識、我々はこれらの仕組みを知らずその現象や内的意識によって翻弄され、それを未知の不思議なこととして驚き怖がっているのである。

私がこの夢の恐怖から抜け出すことが出来たのは、自分の潜在意識のあり方を知ったからである。
私は同僚の小渕さんに心から同情してしまい、非常に深く彼の潜在意識まで入ってしまった。

いつの間にか、彼の内的波動に接するようになり、いろいろなことが手に取るように分かるようになっていた。

彼と一緒に働いている私は、いつしか彼から彼に対する家族の非情さなどの話を聞かされているうちに、人間の本来の自由な生き方を重ね合わせて彼を見つめ憐れむようになっていた。

複雑な家族関係でありその内容までは言うことは出来ないが、私も人間として感情的になり強く彼に同情するようになっていた。

すべてはそれが原因で、ただの仕事仲間という関係でしかない私まで、結果的に死の連鎖の影響を受ける羽目になってしまった。

ここでは同情ということが根本的な原因となるが、すべてにおいて同情することがよくないということではない。

自分も人も、バランスを欠いたりネガティブを助長させるような感情は、たとえ同情や親切であっても、また慰めや慈善であっても相手の意識も考えて行かなければ、場合によってはその行為自体がその人のプラスにならないこともあるということである。

この不思議体験は、私に潜在意識をよく気づかせてくれた本当にありがたい隠れた自己意識に関連する夢だった。

この夢に出てくる同僚の小渕さんは、私の潜在意識の調整によって創造したものである。
もちろん、無意識、死の世界といったものが複雑に関連して、私をその場に存在できるようにしてくれたのは私の魂である。

人の意識は、どうにでも自分の潜在意識や潜在意識的調整によって作り変えられる。

トラウマ、前世、性格、心の問題などで苦しんでいる心の病などは、すべてこのような意識の理解から見つめることによって、結果的には早く解放されるだけでなく、その理解は自分の一生通じて使える智恵となるのである。

誰でも早く楽になりたい、解放されたいと思うのは当然であるが、あまりにも一時的な療法でその気になってもそれは解決や意識の成長にはほとんどつながっていないのでる。

結局、癒す側も癒される側も意識の成長なんて関係ないと思っているのである。
解決でないものは解決するまで、それから左右されなくなるまでは苦しまなければならないのである。

潜在意識に関することは、人間は意識である以上、我々の気づかないところでどんなことで影響しあっているか分からないものである。

一見関係ないと思われることも、関連付けて見る習慣をつけることで意識の世界もどんどん広がっていくだろう。

現代に多い心の病気だけでなく、訳のわからないこの世の価値観、人が生きるという真剣な行為、誰も答えてくれない人間意識やこの世の疑問、これら全部理解できるということは、それこそ我々が本当に求めている安心なのかもしれない。

本当は、本質はみんな優しくていい人ばかりだと私は思っている。
ただ、そのような自分、本来の自分を出せないで生きているだけである。

それは、社会や誰かのせいではない。
すべて、ネガティブの罠にはまっている、意識として余裕のない自分がいるからである。

一人一人の優しさ、すばらしさを出せれば、この世は即、地上天国だ。
潜在意識に至れば、今、ここにある世界である。

だから、アセンションなんて特別なことではないのである。
本当に大事なことは、どうすれば、どうなれば自分の意識が真に満足し喜ぶかである。

その自然な表現が、今生きている自分自身となれば最高である。