真我と魂

No. 21 真我と魂

「真我とは何か」、今回は真我について少し深く考えてみたい。

「真我とは何か」を説明するといっても、真我自体は見ることも触れることも出来ない、また意識的にも感じることも出来ないものであるから、最終的にそれがどういうものであるかは、あなたの内にある霊性からの反応に頼るしかないだろう。

この各自にある霊性の反応というのも、真我からの無意識的な光の働きかけと受け取っていいだろう。
私は真我という言葉はほとんど使わないが、それと本質的には全く同じである「自分の魂」という言い方をしている。

これから述べることは、私がこの勉強を始める25年前に自分の絶対目的として何よりも第一においたことである。

第一の絶対目的であるから、私のこの25年間の意識に関わるすべての勉強訓練は、この真我に至る道といっても過言ではない。

その結果は今であり、そして今は、また真我に向かう経過の中でもある。
これまでの勉強で積み重ねてきた意識の段階は、この真我一体を目指す私自身のすべてである意識、自己存在そのものである。

その意識には、この世とは全く違う、またほとんどの人の知らない多くの神秘的霊的智恵も含んでいるのである。

あなたが意識向上を目指すには、いつも私が書いていることを他の本やサイトなどと比較して考えることは、いろいろな疑問も出ると思うのでそれは良いことだと思っている。

そして、あなたがさらに深い意識の世界である本質に目が開き、その方向に深く入って行ければいろいろな世界がよく理解出来るようになるだろう。

何故なら、それはすべての道、全回答で成っている意識の世界だからである。

今、精神世界や霊的な本はうんざりするほど出ている。
その中で、誰もが何かを求めて自分にあった本を探しているのであるが、それについても大事なことに触れておきたい。

どんなすばらしい本を手に入れようと、自分の意識がその内容を理解できないのでは、全くの宝の持ち腐れとなるだけである。

その中に何かの超○○の方法が書いてあっても、ほとんどカン違いで全く違う道に逸れていくか、結局無理かのどちらかになる。

この世的レベルのことなら、それはそのテクニック止まりで早めにその限界に気づくだろうが。
聖者クラスの方が使える超意識や能力は、悪用されることを防ぐためにその方法を教えないということもあるが、それ以上にその意識を理解出来ているかどうかが鍵である。

このような方々の力は、ほとんどは完全な悟りの意識で持って使っているのであって、その意識に至らない者には教えても使えないのであるから無駄ということである。

そのことも知らずに超○○を欲しがるほとんどの人は、意識レベルという自分の無智さにも気づかない。

霊的法則は秩序であるから、それを理解できるまでに人間、次元の意識の理解が深く進んでいるということが条件である。

そこまで行っていない者に、どうして一から教えて行かなければならないのか。
理解するために準備することは、我々ができる聖なるものへ向かう思いの証でもある。

どこどこに行ったら聖者に会える? 聖者の下で修行できる?
私なら、こんな程度の聖者のところには行かないよ、と言うが。

こう言うのは、人が求める聖者が間違っているというのではなく、本でも教師でも自ら選んでそこで続けられるのは、これも内なる霊性の表現だということである。

人は努力をして行けば必ず意識レベルも上がって行くのである。
この世には、ちゃんと自分のレベルにあった本やそれを教える人はいるのである。

意識に関しては、初歩とか基本的レベルだからといって、それは低い意識ということではない。
ネガティブや低級霊を扱うものは低いレベルである。

また、間違ったことを教える人やそれを喜んで鵜呑みにしてその気になっている人も意識は低いとなる。

結局、自分の霊性をしっかり自覚出来ている人は、どんどん向上して行けるということは間違いない。
ここでいう霊性とは、その方向が真我、魂、創造神の方向からのものであって、決して先祖の霊やテレビなどで扱うような霊ではない。

そのようなものをいつまでも相手にしていると、自分の霊的波動まで下がってしまうから注意である。
意識レベル向上のポイントは、精神世界的で言われている言葉の意味から、少し難しくてももう一歩突っ込んで少し高い意識の意味で考えることである。

今、解るかどうかではなく、自分の思考の限界を破る感じを意識向上の進め方とするのである。
こうして、何十にもなって閉ざされている神秘の扉が、一つ一つ開いて行くのである。

真我の説明は、一般から求道者レベルまでその人の理解に基づくものでなければ、説明しても心に残らないだろう。

精神世界、宗教や意識の勉強というのは、この真我という本当の意味を知りそれに近づいていくための基本となるものである。

真我という言葉だけを説明しても、その段階が上がるごとにたくさんの疑問質問が出てくるのが普通である。

その疑問質問に答えているものが、基本的には精神世界系だと思えばいいだろう。
だからたくさんの人が精神世界の勉強をしていることは、実はこの方向に向かっているということになる。

ただ、今の精神世界の中には、この方向性から故意か本質を知らないためかは分からないが、かなりこの道から逸脱しているものも多い。

特に、スピリチュアルビジネス系では、一般人を相手にいきなり真我という言葉を使っているものもある。

本質的な意味からして、何も知らない人がそれを真我だと信じてしまうと、魂の成長にも大きくブレーキがかかってしまうのである。
何でもこのような神秘的な言葉を知っていればいいというものではないのである。

このようなレベルで言えば、すぐに何かの力を得られるものには黒魔術的や低級波動的な要素を含むものもあるので、すぐに何かの神秘的力を欲しがる人にはこのような魔の手に引っかかりやすいのであ
る。

いったんこのようなものにはまると、抜け出すのも大変である。
これも、その人の内に持っている霊性の守護力が「何となくおかしい」と注意させてくれるものだが、ネガティブであれば届かないだろう。

他や外からの力に頼るな、すべて自分の真我(魂)を求めよ、ここから来る力は何よりも安全で確実である。

それには、ある程度の勉強と修練が必要であるが、それは真我(魂)側、高級側との同調のためである。

どうして何も知らない人が、ネガティブな人間がすぐに高級な力に触れられるのか、これこそ霊的法則を無視したもので、それがわかればつまらないものに引っかかることはないのである。

ここで精神世界系では、真我とはどういうものだと言っているか調べて見ると、その意味として次のようなことが出ている。

「本当の自分」「実相」「内なる神」「宇宙意識」「愛の本質」「完全なる意識」その他にもあるが、この言葉からでも解ると思うが、我々人間の意識とは全く違うものだということである。

それは、人間の世界で説明できるものは一つも無く、神の分野として理解した方が早い。
最初の意味で出てきた「本当の自分」が真我だと言われたら、この説明を聞くすべての人は戸惑ってしまうだろう。

そして、「この完全なすばらしい意識があなたの中にあるのだから、自信を持って真我としての自分を生きて行くことは、今回あなたが生まれてきた使命です」と言われたなら、あなたはどう思うだろうか。

このような言い方は、今のスピリチュアルカンセリングとか精神世界で安易に使われる、人を一時的にマヒさせる言葉である。

心的根本があいまいな人は、このようなことを言われるとその気になって自分は特別な人間なんだと思い込む人もいるかもしれない。

人を迷わせることもあるというだけで、今の言葉は間違いでも全くの偽りでもない。
ただ、真我レベルの意識は、普通の人には全く縁のない、人にとっては一番遠い意識である。

真我や魂がどうのこうのと言うなら、それまでにその本質を理解していくための相当な意識の勉強が必要なのである。

その言葉を知っていることと、その意識にあることはまったく違う、3次元と4次元の違いに等しい。
真我を簡単にしてしまう人の間違いを指摘すれば、真我意識をすぐ物的、この世の満足につなげようとすることだ。

真我に向かうための勉強は、当然この世にも大きく役に立つが、真我意識はあくまで霊的意識方向である。

それをこの世に結び付けようと考えている時点から、もうその意識とは離れているのである。
この世界、真我の世界は、人間の意識感覚で考えることもイメージすることも出来ない。

精神世界系では真我を「本当の自分」と言いながら、別な存在として考えている人も多い。
真我に会うには、真我に会ったなら、真我に気づいたなら、どうのこうの・・・。

まるで真我を知っているような・・・。
高級意識方向の教え方は、本当はかなり難しいものである。

何故なら、それは見えるものでも感じられるものでもなく、ほとんど共通の例があるものではないからである。

見える形で何かの例として話して行くと理解はしやすいが、それはあくまでわかりやすくするためであることを強く付け加えておかなければならない。

そうしなければ、聞く側はその方向のイメージを持って、そのイメージに集中していくからである。
本物でないイメージを持ち集中することが、どのような問題を持つかはほとんどの人は知らない。

潜在意識をよく知り、無意識を知り、慎重にその人が方向を間違わないように道を示すことの難しさ。
高級意識に進むにつれ、より理性的に慎重であるべきである。

真我の正体は霊的な自分自身、それは今の自分という人間とは意識レベルの違う魂である。
この世の魂と真我である魂の違いは、この世の単なる我としての自分と、その我の影が薄れて真の自分という意味の霊的完全意識と一体となって真我となる。

魂は二つある。
当然である。

次元の違う世界ということは意識の違いでもある。
3次元と4次元、3次元の魂である我々の我と、4次元の魂である真我。

どうだろうか!
これでも簡単に自分の都合や人の悩みという低次元に、高級4次元の真我(魂)は関わってくれるのだろうか。

真我の世界は、我々の世界から見れば、意識的智恵そのものとしての神の世界である。
これらの感じは意識で把握しなければならないので、人間的思考を解除できないかぎり思考で理解しようとすると何も焦点が定まらないだろう。

我々が高い意識レベルを知ろうとするには、低いところだけで理解しようと頑張っても時間だけが過ぎ去っていくだけである。

意識レベルの高いところを目指していくことは、今は理解出来なくても、いつの日か自分の意識成長の気づきに驚くときが来るものである。

高い意識レベルに関しては、はっきり言って、何もしていない人がどうこう言えることではないことも知っておいて欲しい。

真我は、自分の意識の延長上に位置していると思ったほうがいい。
そこを通るとき、要するにその意識の場に至ったときに自分がその意識に重なるのである。

それが「真我一体」と言って、キリスト意識、仏陀意識、宇宙意識というのである。
ここでこの場の一体で、人間完成というか、低級物質人間からの脱出で本来の自分に戻ったとなる。

本来の自分に戻るということは、元からある自分と最終的に戻った自分は、元々一なる意識だったとな
る。

ここに戻る過程が意識の勉強で、何のために意識の勉強が必要かと言えば、戻る道を知ることとその道に転がっている自分の進む道を阻むいくつかの障害を取り除くためである。

その障害がネガティブと言っているのである。
人間が生まれてくる目的が何であるか、それはこの世の何かをするためではない。

元の自分に戻るために、それがうまくいかないから何回も生まれ変わりをしているだけである。
その道を迷わず進んで行くことが個人のアセンションである。

精神世界でもっともらしく言われていることは、実は何の恐怖も未来も関係ないことで、あなたの物的使命などというのも本質からかなりかけ離れていることがこれで納得できたと思う。

もし、今言ったことに疑問がある人は、自分に納得できる説明が出来るまで自ら真理を追った方がいいだろう。

私が今回述べた程度を知っているというだけなら、大した確信にもならないのである。
この件に関しては、私は絶対確信をもって真っ直ぐ進んでいるので、いまさら誰の意見も聞く耳は持っていない。

私の意識成長を促してくれるのは、間違っても訳がわからない宇宙の高級知性体とか勝手に来るささやきでもない。

私は自分の真我(魂)からのインスピレーションが来なくなれば、すべての意識的成長は止まる。
そうなれば、この世に生きていても何の意味もないだろう。

今回の真我について、あなたはまた解らないことがいっぱい出てきたかも知れない。
それはいいことであると言いたい。
何故なら、その疑問解消によって意識が真我に向かって成長していくのであるから。
あなたは今の思考的自分から脱皮して、これからは自分の場である世界を意識で動くようになって行くのである。