潜 裡 眼
No. 14 純粋性
一般的に子供を育てる親は、自分の子供が健康で素直に、そして純粋な気持ちを失わず成長していくことを願う。
しかし、それはある時までのことで、いつまでも純粋で素直な心のままでいると、今度はその子に対して心配と不安がでてくる。
「こんな素直でいい子は人にだまされないか、いいように扱われないか、このままだと将来苦労するのではないか」などと、反対の思いが出てくるのである。
この社会では、純粋で素直な心のままで生きる事は難しいから、早いうちからこの「純粋性」を捨てていく。
特に現代は、その傾向が顕著だ。
純粋で素直な子供を相手にしていると、人の心も緊張感が解かれ自然に和らぐものである。
この心からのリラックス感自体は「純粋性」の表れなのであるが、この事すら気づかなくなった大人といわれる意識状態も寂しいものである。
人同士が心から純粋な気持ちで接するなら、何の抵抗も生じず平和な気持ちになる事くらいは、誰もが知っていると思うが、知っていながら実現できない。
そうならざるを得ないのは、人の心に悪やネガティブがあるためであり、またそれに警戒しなければならないからである。
我々は、このようなつまらないもののために、本来知恵と力そのものである「純粋性」を捨てるだけでなく、いつまでも同じ繰り返しの生まれ変わりをしなければならないのである。
この世において純粋そして素直であることは、それを大切にする反面、精神力の弱い消極的でパワーのない人間に取られることもある。
「心がきれい、素直、純粋、そんな奇麗事じゃこの世は生きていけないよ」、私もこのような言葉は、今まで結構聞いてきた。
しかしよく考えてみれば、我々が思うまた基準とする「純粋性」は、どこからが純粋かというとまったく人それぞれの基準も違うだろう。
我々は今まで、いつの間にか心に入ってきた純粋という観念だけで、「純粋性」を知っているに過ぎないのである。
だから簡単に、この「純粋性」というものを自分から外す事ができるのである。
「真の純粋性」は、今は眠っている状態かもしれないが、一人一人の意識の中に確実にある。
このような状態だから、心の奥底で「純粋性」のすばらしさは感じているが、どのようにして自分の知恵にするかなどは、ほとんどの人にとって考える対象ではないのである。
我々が、自分の潜在意識それから霊的意識をより深く理解しようとするには、この「純粋性」が必要なのである。
「純粋性」については、誰もわざわざ取り上げて説明する人もいないだろう。
この世においては、「大人になっても純粋性か」と冷めた笑い顔が見えてきそうである。
精神世界や宗教でもこのような気持ちで生きる事を説いている。
「あるがままに生きる、愛で生きる、今この瞬間を生きる、自己の魂を輝かせて生きる、我々は愛に包まれている、我々は神の子である」など、これ以外にもその気にさせる多くの言葉がある。
「その気にさせる」と言うと否定的に取られるかもしれないが、私は視点を変えて考えたいだけである。
このような言葉を何の根拠もなく否定したり拒否したりすることも、反対にすべてを鵜呑みにして盲信することもよくない。
また、子供の頃からの延長による「純粋性」だけでは得ることも少ない。
努力もせず、ある考えや意識的な感じの中で何も考えず恍惚状になってそれが最高と思っている人は、どうやって次に進める何かを得るのであろうか。
何もしないところには、何かいいことが起きようもないのである。
我々が心から知りたいと思うことを知った時は、その満足感で自分の気持ちまで癒される。
我々を良くする発想や考えは、すべては自己の内からやって来る。
潜在意識から霊的意識の知恵を求めるにしても、我々はこの世の考えのままでは何も得られないだろう。
少しでもネガティブを外し、自己の現せる最高の純粋な想いで潜在意識に近づかなければ、何が理解できるであろうか。
潜在意識開発や願望実現などで自分の意識を見つめようとするとき、一体どれだけの人が何の邪念や疑念も抱かず純粋な意識になっているだろうか。
願望実現のためにいろいろなテクニックを考え、潜在意識に簡単にインプットできる方法を作為する。
知っているのだろうか。
潜在意識には、このすべてが入ることを。
もし、潜在意識に自分の都合のいいものだけが入るなら、この世は天国だ。
意識の深いところに入れば入るほど、自己の「純粋性」が問われるのである。
「純粋性」は、本来大人になってから再び確認しなければならない重要な事なのであるが、その逆に無視してきたのである。
自分に知恵と力をもたらし自己を守ってくれるものを、知らないということのために使えなかったのである。
「純粋性」の究極の姿はどのようなものであろうか。
それは、すべての完成された顕現である、イエスや釈迦それに聖者といわれる方々である。
聖人方は、この純粋性を説いた。
今はそのことには触れないが、完全純粋である彼らは弱かったであろうか。
真の「純粋性」は知恵であり、力である。
我々は、この大切な意識を何の根拠もない観念の中で手放すだけでなく、遠くに捨てさせられてきた。
すべては逆である。
強いものは「純粋性」を保ち、弱いものは「純粋性」を保つ事が出来ない。
「真の純粋性」の中には、弱さの入る余地はないのである。
この世の言葉の意味では、真の言葉の意味を理解する事は難しいのである。
我々は、これからこの知恵と力の根源に導く「純粋性」を取り戻していくのだが、だからといって、簡単に素直で純粋になればいいということでもない。
我々は、この先「純粋性」と「調和」を邪魔するネガティブの影や渦に巻き込まれないように、慎重にすすめなければならないのである。
一般的に言われているネガティブ思考とかポジティブ思考というものは、その捕らえ方は悪くはないがその思考はいつも不安定である。
真のポジティブ思考を知ると同時に、ほとんどの人が気づかず無意識にはまるネガティブのわなである誘惑や誘導などを知る事は、まったく新たな自己の形成への第一歩となる。
我々は、「変身」ではなく「変神」を理想としなければならないのである。
それは、夢の夢、さらにその夢でもいいのである。
潜在意識的理解が増すにつれて、いずれ納得のいくことである。
すべてのことは、我々の意識の中にあるから誰でも理解していける事なのであり、そのための特別な人はいないのである。
我々はどこからでも自由にスタートできる。
円周のどこにいようと、向かう先は円の中心である。
だから、全員が中心で一つになるのである。
「人類みな同胞」、結局一つの意識しかないということで神意識を理解する以外、人間の生まれてくる最高の目的はないということになる。
これを超える人間の生まれてくる目的が他にあるなら私も知りたい。
人間の進化は、科学文明を進化させる事ではないのである。
本来「純粋性」とは、抽象的な一つの感じに過ぎないのであるが、ありのままの真実なる自己の意志でもある。
この世に知られている浅い部分なら暗示的にその気になれるが、より深く知っていくには、土台となる理解がなければ、決してそれ以上進むことはできないのである。